27/10/2024
播州姫路の灘けんか祭り
そこに集まる若者達は見事な褌姿で裸体を誇らしげに見せていた。
10月15日から始まる播州姫路白浜に住む知人が年に一度の大祭「灘のけんか祭り」に招いてくれた。けんか祭りは正月よりも遥かに重要な儀式といわれそこに住む全ての者が2日間の祭りに参加し、情熱を燃やし尽くすそうで、この時期にしか体験出来ないお祭りだからと、観覧用の桟敷席まで用意して頂いた。
その宵宮の初っ端は、屋台(神輿)を屋台蔵から出す行事から始まる。大振りで重量感がある神輿を、参集した裸の男達が大声を出しながら丁寧に引き出している。男達(男衆)は若者や壮年でその身体つきは様々。筋肉マンや鶏ガラ風もいればでっぷり肥えた者、あるいは太鼓腹がやたら目立つ者も混じっていてそこは一切垣根が無い。職業もまちまちで職人や事務員、公務員、事業主や親方、店長や社員、アルバイト生らだが裸体だから職分が見えない。明確なのは、松原八幡宮が所在する灘7カ村の一つである松原出身(全戸で最大の2400世帯)を示す赤いねじり鉢巻が輝いて見える事。そしてこの120年に及ぶ歴史と伝統ある白浜松原八幡宮の縁起祭りに参加しているという自負と特権に喜び勇み、誇らしげである事だ。その迫力は思わず見入り、のめり込むほどに勢いがある。
彼ら男衆の周辺には年嵩のいった旦那衆や世話役が地味な色合いの羽織袴姿で裾を払い、白足袋と草履、紅の襷(タスキ)をいなせに襷掛けして、同じ年頃の仲間達と日頃の無沙汰を詫びつつ楽しそうに歓談し、居合わせた青年に声をかける。今は町に格上げされた灘7箇所ある町内は彼方から此方までそこに住む全ての者が隣同士なのだ。
祭りは毎年10月の15日の宵宮と16日の本祭りに分かれ、本祭りでは特注の三つの屋台をぶっつけ合い壊し合う。激しく破損すると来たる年は豊作という慣わしがあるそうな。「けんか祭り」といって実際に喧嘩するのではなく7つの町がそれぞれ色とりどりの、シデ(幟)を担ぎながら神々の趣向を凝らした屋台(神輿)を練って(担いで)、広畠(広場)の練り場で練り合わせる(ぶっつけ合う)行事をいう。シデとは長い棒の先に髻のような大きな丸型の紙の玉をあしらったもので大漁の時に波がぶつかり合うさまに似せていてそれぞれの村が固有の色、例えば赤、青、橙、緑という飾りで屋台を囲むようにして波を打つ。
けんか祭は術を競って渡り合う(練り合わせ)事をいう。神輿をぶっつけ合うのだから迫力があって爽快で強烈で非常に激しい。その昔日本が未だ差別だの安全性などと伝統に偏見を感じなかった頃、学生時代の運動会のハイライトで騎馬戦が行われていたがそれに似ている。生徒が騎馬を作り大将が乗り、それを他の生徒らが取り囲んで守り、相手の大将を騎馬から落とすという守る気力と、(相手を攻め立てる)知力で闘う競技だ。この練り合わせは正にその騎馬戦のようなもので豪快でエキサイトで痛快な競技なのだ。
グアムに住んでいると洩れ聞こえてくる今の日本社会は、高齢化が進み若者は目先の成功(言い換えれば金儲け)に執着し、その圏外にいる者は将来に夢も希望も感じていないと度々聞かされる。メディアはいつも若者の絶望と悲愴を煽りたて、社会や政治の責任に転嫁する。が、現実はそれほど悲惨ではなく、金儲けに執着する野心満々で多感な者はさて置いて、普通の若者は時代がどのように移っても変わらず真面目に社会の中で自身の矩を踰えず、為すべき事に責任を感じながら働いている。都心の中にも地方にも村の中にもそういう青年は数多くいる。
ここではそういう若者達が年に一度の大祭を楽しみに自身の青春と情熱を裸一貫にまとめてここへ集まる。それは言い換えれば青年のエネルギーそのもので、そこにあるのは「日本人らしさ」だけであった。彼らはまるで神に遣わされ守られていて、一見では見分けもつかない本物の大和男であり神々の化身だった。そしてその中に女性は一人も存在していない。御法度だからというのではなく、彼女らでさえ男衆の気迫に圧されて、差別だの平等だのと権利を叫ぶのを恐れ憚るのだ。身分と場所柄を弁え女性という身分の矩を踰えず、男衆を補佐する事に専念する。平等だの性差別だのと喚き煽り立てる現代とは些か雰囲気が異なる。前の時代に戻った気分になる
。
当然ながら祭りは神事であるから守り神への感謝とこの世的な邪気を払う事を目的としている。であるから彼らは時世がどのような揺さぶりをかけようとも決して揺らぐ事なく疑問を抱く事もなく、ひたすら誇りと意義を感じて伝統を継承しようとする。これはここに住む者の特権でもあり真の日本人の姿でもある。
グアムでは日本人会が主催するグアム秋祭りがある。神と繋がらない行事だからどう控えめに見ても祭りの本義とかけ離れていて、地元民用の祭りだからと露天屋台がやたらに目立つ。いわば物販販売が目的の祭りだ。日本人よりもローカルを専らにした祭りというから主客転倒でもある。それどころか踊り手さえわざわざ日本から呼び寄せている。つまり祭りに名を借りたショーなのだ。神事とは別次元の見世物だ。
であるから「灘のけんか祭り」を観た時に、初めて本物とはこういうものでこうあるべきでだと得心し、溜飲が下がりそこに救いを感じた。祭りは神(神社)と繋がりがあってこそ初めて神事になり、その神への崇敬と感謝が自然に備わってこそ参加する者も見る者も気持ちが清らかになる事を体感した。そして男衆らが溌剌として各々役割を弁え、楽しそうにエネルギーの全てをぶつけ合う姿に本来の若者の有る様を見つけ、それを尊ぶ行事に感銘し、そこに明るい日本の未来を感じた。
ここでは男を漢と書く、男らしい男という意味だがそれを忘れている日本人は多い。