01/10/2024
フジゲンでの業務内容
依頼を受けて遥か昔40年前のフジゲンでの業務をまとめてみました。結局使われなかったんですが、、、よっぽど暇でしたら読んでみてください。
1979 S54 7月:入社
3ヶ月ほど現場研修その後、、、試作室にて各ブランドのギターおよびパーツのデザイン&設計を、先輩方指導の元手探りで始める。
ジェフベック、スティーブルカサーのエンドース用として神田商会のアドバイザーTさんが企画したしたミニギター(テレキャスター、レスポール)の設計及び製作(専用治工具を含む)を担当。ジェフベックは日本公演のアンコールで使用。
この業務で構造、製作方法、パーツ設計などギターの全体像を学ぶことができた。1/2以下のサイズでありながらいかにして演奏性と見た目のイメージを保つか、、、デザインのまとめにはとりわけ苦労した。図面ができた後は専用アジャストロッドなどをパーツ屋さんに発注、治具製作を含め全ての加工工程をベテラン職人の方々の指導を受けながら行う。
特に初心者にとって難易度が高かったのが、アジャストロッドの仕込み、レスポールのネックジョイント部とアーチドトップの加工。アジャストカバーやピックガードなどは手作りした。
以降星野楽器やグレコの新機種のパーツを含むデザイン及び設計を担当。当時円高が進み、と言っても200円程度だが、その対策として出した星野楽器のブレイザーシリーズやグレコのブギーなどを手掛けた。
設計した様々なギターパーツの試作&量産打ち合わせのため、信越鋲螺、ゴトーガットに留まらず、その先のプレス、切削、亜鉛及びアルミダイキャスト、ロストワックス、焼結合金、樹脂成形、金型製作、サンドブラスト、バフ、メッキなどの様々な外注さんを度々訪れ、部品の製造工程や技術を学んだ。これにより設計のスキルがアップ、モノづくりは現場をよく知ることがとても重要だと改めて思った。
1981 S56:係長
NCルーター導入(フラットトップ&ディタッチャブルネック用ボディー加工用)
各取引先が描いてくるデザイン原案図や現物見本等よりNC用設計図を描き、それを元にプログラム作成、各種付帯治工具を設計&製作し、加工サンプルで承認を得た後製造現場に引渡すといったプロセスで進めていた。
当時工場のNCによる近代化はフジゲンより東海楽器の方が進んでおり、レスポールのアーチ削り出しも含め、導入が早かった。東海、フェルナンデス、グレコの3プランドがしのぎを削り、ハイレベルなエレキギターが市場に溢れていた。品質については甲乙付け難かったと思う。
プログラムは、直線とRのみで構成され全ての座標位置が数値化されているギター図面を描く所から始まり、電卓の三角関数等を利用した手計算で刃物の進行軌跡を数値化し専用用語に置き換えて書き出す。出力は紙の穴あきテープで、専用タイプライターを用い長いプログラムを一文字づつ入力、一度のミスも許されなかった。万が一とてつもなく長いプログラムで入力ミスをしたり、湿気などで紙テープが傷んだ場合は、修正箇所をノリで切貼りしていた。
木材は繊維が走っているので、加工箇所の刃物の入れ方や進行方向やスピードや深さを上手くコントロールしないと、欠けが出たり肌が荒れたりする。そこでベテラン職人の手作業によるルーター加工を何度も見てそれを参考に改良を重ね、欠けや肌荒れが少なく、なおかつトータルの加工時間が短いプログラムに仕上げた。
1982 S57:フェンダーOEM開始
フェンダー本社を訪問し、技術交流。その後数年間毎年NAMM SHOWの後訪問しさまざまな打ち合わせを行った。1987年CASIOと共同開発したギターシンセサイザーの基板を売り込みに行ったこともあったが、これは断られた。
初回は生産設備、加工方法、治工具類、刃物、塗装&組立てライン、資材管理、図面などをつぶさに見学し、OEMのための意見交換を行う。ネックの削り出しはなんと2倍サイズのマスターピースを使ったザッカーマンの倣い加工機。メキシカンがほとんどを占める作業員が、微妙なグリップ加工をするのは当時は無理だったのだろう。
フェンダー本社にはNCプログラミングで使えそうなオリジナル図面が残っていなかった。インチ表記で全幅、全長は記載されているがアウトラインのR指定はなくフリー曲線。紙焼き(収縮する)なので、部品位置等の数値以外はほぼ参考にならない。
グレコのフェンダーコピー商品をNC化するに当たり、神田商会や有名な中古ショップより、年代も含め最適と思われるビンテージギターを借り受けて解析&計測、図面化しNCプログラムを作成して製造開始。オールドに詳しい複数の業界人の意見も取り入れ、初期の全盛期のフェンダー各モデルの再現に心血を注いだ。ストラトキャスターは社内に極めて程度の良い年代物があり、それを解析。
グレコブランドで既にNCで製造していたフェンダーコピー商品とフェンダーOEM製品の違いは、ぱっと見殆ど無かったと思うが、フェンダーブランドを冠するに当たりピックガードも含め再設計したはず。ただしどこをどの程度変更したかははっきり覚えていない。弦長いわゆるフェンダースケールの再現については、かなり昔業界の誰かがアバウトなコピーをし、(インチとミリの違いがあるのでまあ仕方なかった)そのまま和製ギター業界スタンダードに成っている数値を変更すことはリスキーなのでスルー。治具や専用機その他諸々の更新にとてつもない時間と費用が掛かるし、その差は僅かなこともあり目をつぶってもらうことにした。順次ストラトキャスター、テレキャスター、ジャズベース、プレシジョンベースを送り出したと思う。
1982〜1984:NC技術展開
以下2タイプの新規導入NCの仕様検討及び発注、前後の工程との兼ね合いや加工時間を予測してのコスト計算、NCを核とした全体のライン設計や新規専用機(フレットR溝切り、フレット圧入機など)設計&導入への協力などを行う。
1、レスポールボディー加工用パレット角度変更機能付きNC導入
(アーチドトップ削り出し、角度付きネックセット部加工など)
程度の良いビンテージレスポールのボディートップアーチを石膏で型取りし形状を整えて、浜松庄田鉄工の3次元デジタイザーを借りて詳細に計測。それを元に加工プログラムを作成。記録された紙テープの長さは100メートル?以上あり、現場での管理に苦労した。
2、フェンダータイプネック加工用パレットチェンジ、補助軸付きNC導入
(アジャストロッドNC溝切り、ポジションマーク同時加工など)
製品の高品質・ローコスト化を達成する目標に対して、ボディーよりネック加工のNC化の方が貢献度が高かった。正直な所、ボディーの外形が1ミリ狂ってもまず問題ないが、ネックは0.5mmでも許されないし、アジャストロッドや糸巻きやポジションマークなどの機能・装飾部品をセットする為工程も複雑で高い精度が要求される。メリットがより大きい。
ネックのアジャストロッド埋込み溝の加工に於いて、日本製のあらゆるメーカーの刃物を取寄せテストしたが、一定の幅の深い溝が一度に掘れず(無理すると折れてしまうし、刃物の有効長が短く加工幅も一定にならない)、ネックNC加工の肝であるこの工程がうまく行かなかった。どんなに乾燥状態が良い材料でも、2度に分けて中央部に深い溝を掘れば、繊維をかなり切断することになるので内部応力が発生し幅が狂ったり段差ができてしまう。1発で歪みを吸収しながら正確な深掘りができる刃物がどうしても必要だった。そこで、フェンダー社で使用していた地元メーカーのスパイラル刃物を取り寄せテストしたところ成功。以前フェンダーを訪れた際、この刃物の性能がとても良いことに気付き、そのメーカーへも見学に行かせて貰っていた。こうしてネックNC加工の工程確立に目処がつき、以降もこの刃物を取り寄せ加工を行った。
NC化以前この工程はネックの握り部分と同様、大口径のむき出しのカッター刃で加工していた。フェンダーでは作業者にむき出しの刃物で加工させるなんてことは絶対に許されないので、彼らも苦労して技術開発したと思われる。因みにこの刃物の研磨も出来る所がなかなか見つからず、富士電機松本工場のドイツ製研磨機で対応可能と分かり以降富士電機に研磨をお願いした。メイドインジャパン完敗。実はこういう事例どの業界でも山ほどある。
こぼれ話1
フェンダー所在地のロサンゼルスは年に数日しか雨の降らない砂漠地帯。本社の敷地内にはそれそこ先が霞むほど広大なエリアに、これから向こう何十年?に渡って使用する膨大な木材が野積みされ天然乾燥されていた。工場の作業員はほぼメキシカン、言葉の壁も有る。で、彼らは見た目が何となくビシッとしないギターを生産している。どう見ても日本製の方が見栄えが良い。しかしラインオフしたギターを試奏したら、、、ぶっ飛んだ。明らかにフジゲン製より音が良い。木材乾燥工程の違いが、大きく影響しているのは明らかだ。日本ではアルダーやアッシュやメイプルを輸入するにあたり、船倉でカビないよう事前に人工乾燥して水分を一気に抜く。この時大事な細胞が傷ついてしまう。メイドインジャパン洋材ギターの泣きどころ、音抜けが悪い。生本マグロと冷凍マグロの違いみたいな。しかし20年30年経過して材が枯れてくると、まあそれなりの音になる。今人気なのはその当時のモデルが良い状態になって来たからだと思う。作り自体は申し分ないのだから。
1985年シュルツ氏がCBS傘下だったフェンダーを買取り再スタート、不良在庫の処理や新工場の立ち上げに苦労し数カ月は生産が途絶えたようであるが、何とかUSA生産を継続し1987年のカスタムショップ立ち上げに繋げた。USAでの生産が3年間止まってフジゲンが唯一無二のフェンダー生産工場だったと言う話は真っ赤な嘘であり、フェンダーの歴史を冒涜している。また新工場立ち上げの指導をフジゲンが行い、専用機を日本から送り込んだと言う話も極めて信憑性に欠ける。松本の地元中小企業で作った専用機など、インチとミリのネジの違いや電気その他規格の違いでアメリカでメンテがまともにできないはず。送るのも物理的&法的に極めて大変。少なくとも在籍中だった私は、その話を聞いた覚えはない。
NC用図面&プログラム作成作業は、開始後2年近く?一人で担当していたので、フェンダーのボディー加工の立ち上げ後も、グレコや星野楽器のNAMMショーに向けての多くの新製品の試作など、日中の稼働を終えた真冬の冷え切った工場でほぼ徹夜でプログラム作成と試験加工を長期に渡って行い、流石に体を壊した。そこでようやく社内でプログラマーを養成し複数人で業務を行う体制に。
その頃コンピータ制御のプログラミング作成機が登場、手計算やシビアな入力作業やプログラムミス確認作業から解放された。また記録メディアもフロッピーディスクに変わり、データ管理が容易になった。私はこの間恐らく100機種近くの設計とプログラミングを行った。
その後順次生産技術課へのNC関連業務移管を行った。
1984 S60:開発課長
電気&電子部門も含むギター関連技術開発を行う
スペクトラムアナライザー(振動解析機)導入、工業試験場との共同研究開始。星野楽器と定期技術交流会を開催。
フジゲンは業績が悪い時期に、ローランドから業務委託を取付けキーボードのアッセンブリーを、本社3階食堂で行っていた。結局うまく行かず、その時採用した電気・電子技術者を引き受ける形で開発科をスタート。
スペシャリストのYさんやHさんの能力を活かすべく開発テーマを模索した結果、MIDIギターの開発に着手。特にYさんは天才的な技術者で後にRolandのデジタルレコーダーやVestaxの世界初のDJ MIDIコントローラーの開発に従事。因みにその当時私はVestaxの取締役製造本部長で、Rolandから独立していたYさんの手を借り開発に成功した。
1985 S61:イバニーズブランドらか世界に先駆けてMIDIギター発売
ギターのイメージデザインは星野楽器Kさん、パーツを含めデザインの仕上げと設計は私。日伸音波で電子部委託生産、フジゲンは量産化技術を持ち合わせていなかったので。製品化にあたり、過去にRolandとの協業で使用したギターシ シンセサイザーのコネクターを流用したかったので、上條社長にお願いして2人で浜松まで直談判に行った。太っ腹の梯社長はあっさり承諾してくれたが、完成したばかりのプロッターの大工場を自慢げに案内してくれたのを覚えている。
残念ながらビジネス的には失敗に終わり撤退。簡単に1行で済ませているが、3社に相当なダメージを与えてしまった。
1986 S62:開発部長
開発業務と並行して営業窓口的な業務も行い、取引先各社の発注や新規種導入の調整会議を毎月行った。この頃ヤマハブランドのギターも生産しており、担当者がフジゲンを訪れていた。
フジゲンオリジナルブランド HeartFieldシリーズ発売
都内にアンテナショップを開く。業界からアドバイザーや店長候補を引き抜く。
プロジェクトチームを立ち上げメンバーで話し合いながらギターおよびパーツのデザインおよび設計を進める。(糸巻きは除く)。専用首振りNCルーターも導入しネックセット加工などに利用。私はギターおよびベース各1機種のデザイン設計を担当、合計4モデルのラインナップを発売した。
こちらも残念ながらビジネス的には失敗に終わり撤退。製品の不出来というよりマーケティング戦略の失敗だろうと今は思う。上條社長は「在庫全部燃やせ!」と怒り出し、私はもう詫びようもないのでただ下を向いていた。
1987 S63:CASIOブランドから本格的ギターシンセサイザー発売
共同開発
電子技術の目覚ましい発展もあり、音源をなど全ての電子バーツを内蔵し高性能を誇った。
イバニーズとの失敗を糧にその後も技術開発を進め、ある程度の目処がついたところでカシオに飛び込み営業をした。その時は門前払いだったが、後日当時のカシオ楽器部門のトップ羽方取締役がフジゲンを訪れ、その日の内に協業が決まった。CASIOの品質基準は極めて高くボデーに写り込んだ蛍光灯が歪んでは駄目と言われたが、流石に少し緩めてもらった。
ある程度の成功を収めたが、コアユーザーに一巡したところで失速し自然消滅。2度も同じ失敗をしてしまった。今でも使用している一部の熱心なファンもいるとは言え。
こぼれ話2
CASIOの羽村研究所で打ち合わせした際仮のギター設計図を見せたら、基板がこのスペースに入る根拠は?と聞かれたので、CASIOさんならやってくれると思うと言ったら、担当者の目が宙を泳いでいた。でも結局そのスペースに収めてくれた。
CASIOは本格的にギタービジネスに参入しようと考えていたようで、フロイトローズタイプのオリジナルトレモロユニットの開発を依頼された。そこで私が設計しまず図面を納品、設計料として数百万円フジゲンに入ったが、結局製作はしなかった。極稀に貢献したレアなケース。フェンダー社へも私の設計したトレモロやをロックナットを納入した時期があった。
1988 S64:新規事業部長
金属加工部門立ち上げ
木製オリジナルデザイングッズ製造販売開始
そこそこは売れたがフジゲンレベルの新規事業としては役不足。
責任を取るかたちで在庫の買取りと退社を申し出る。NC化に於いてはそれなりに貢献出来たが、その後何度も会社に損害を与えてしまった私は、もう居場所がないと感じていた。
1990 H2:7月退社、同年8月平林デザインスタジオ設立(35歳10ヶ月)
あっという間に駆け抜けた10年余り。フジゲンとしてもいろいろ模索していた時期であり、一応それに沿う形ではあったが、かなり自由に挑戦させて頂いた事はとても感謝している。その様々な経験が私の糧となり今日までデザインの仕事を続けることができた。
※各トピック年代や役職に就いた時期等は正確でない可能性があります。なにせ40年も前のことですので。