VOIDE(ヴォイド)南魚沼に眠る物語を旅する観光音声メディア

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に眠る物語を旅する観光音声メディア 新潟県南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「VOIDE」(ヴォイド) -Discover the stories of Minamiuonuma-

【南魚沼に春を告げる味|大崎菜】https://voide.tours/story/osakispinach■300年前から続く伝統野菜・大崎菜新潟には冬から春にかけて収穫される「とう菜」と呼ばれる野菜があります。「とう菜」とは、薹(とう)...
17/03/2024

【南魚沼に春を告げる味|大崎菜】
https://voide.tours/story/osakispinach

■300年前から続く伝統野菜・大崎菜
新潟には冬から春にかけて収穫される「とう菜」と呼ばれる野菜があります。「とう菜」とは、薹(とう)と呼ばれる花をつける茎を摘んで食べる青菜で、大崎菜もその一つです。冬場の野菜が不足する時節の貴重な栄養源として昔から重宝されており、その独特のほろ苦さと甘さは、南魚沼に春を告げる味と言われています。

■大崎菜の始まり
大崎菜は、江戸時代に金沢にある大乗寺から伝わったと言い伝えられています。大乗寺は、加賀百万石で有名な前田家ゆかりの菩提寺で、その寺に遣わした者が同寺に程近い清水に恵まれた里で「雪菜」と呼ばれる青菜に目を止め、郷里の大崎でも栽培可能であると思い立ち、種子の分譲を懇願し、もらい受けたのが大崎菜の始まりだそうです。

■湧き水に育まれた野菜
大崎菜は、八海山の麓の大崎字滝谷地内から滾々と湧き出る「滝谷の清水」に育まれています。この清水は、夏は冷たく、冬は温かく、その量も豊富で県下でも稀な湧き水と言われています。大崎菜は、それぞれの家で種を収穫し栽培していますが、その種を他所で栽培しても、風味がまったく異なってしまうことからも、この清水の恩恵による特産物と言えるでしょう。

■一番薹、二番薹、三番薹
大崎菜の収穫は12月から始まります。まず中心の花をつける茎を取り、そのあと伸びてくる脇芽を収穫します。最初に収穫する花をつける茎を一番薹、次に収穫する脇芽を二番薹、最後に収穫する脇芽を三番薹と呼び、あとに収穫するほど苦みが少なく、甘みが強くなります。これは大崎菜が、厳寒期の寒さから細胞の凍結を防ぐため光合成によって生み出した糖とビタミンを蓄積させているからです。

■雪の中で守り続けられる名菜
大崎菜のほとんどは露地栽培ではなく、ハウス栽培で育てています。ハウスの周りには「滝谷の清水」が流れ、雪が積もっても雪を解かしてくれますが、大雪になると解けきれずハウスが潰れてしまうため、夜中にかんじきを履いてハウスの周りの雪を踏んで消すような苦労もあります。しかしそれでも、江戸時代に栽培が始められた大崎菜は、地元の農家によってその伝統と味を守り続けてきました。ぜひ皆さんも南魚沼を訪れた際は、300年前の江戸時代に想いを馳せつつ、八海山の麓で栽培される大崎菜を堪能してみてください。

=====================================
The Taste of Spring in Minamiuonuma|Osaki Spinach
https://voide.tours/en/story/osakispinach

Through audio, stories, photos and movies, VOIDE is a travel guide that lets you experience Minamiuonuma using all 5 senses.

VOIDE is your personal guidebook for the world around you.
=====================================

詳しくは、公式ウェブサイトをご覧ください📲

=====================================

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「南魚沼に春を告げる味」をご紹介いたします。

【伝統の味、守り続けて100年 極み食材「山家漬」/ 今成漬物店】https://voide.tours/story/imanari_tsukemono■代表商品『山家漬』について『山家(やまが)漬(づけ)』はこの土地で採れた野菜山菜を、や...
17/03/2023

【伝統の味、守り続けて100年 極み食材「山家漬」/ 今成漬物店】
https://voide.tours/story/imanari_tsukemono

■代表商品『山家漬』について
『山家(やまが)漬(づけ)』はこの土地で採れた野菜山菜を、やはりこの土地で作られた銘酒『八海山』の酒粕に漬け込んだ甘口の粕漬です。『山家漬』の名付け親は新潟の文人會津八一。會津八一は西行の歌集『山家集』に因んで当店の粕漬を『山家漬』と命名して下さいました。私どもはこの命名の年を創業年として、現在までの百年以上、変わらぬ味と製法を守っております。

日本有数の豪雪地帯ですから、漬物は大切な冬の保存食として生活の中に根付いています。長期間漬ける漬物は、発酵という過程を経て、野菜をそのまま食べる以上の栄養価と美味しさの付加価値を得られる魅力的な保存食です。

旅をしていると忘れられない景色に出会います。何年経ってもふとした時に脳裏に蘇る美しい景色の記憶は旅の宝です。

よく私どもの『山家漬』を、「忘れられない味」と表現していただくことがございます。『山家漬』の味そのものを忘れられない味と言って下さる方も多いのですが、昔どこかで食べた思い出の味と同じだった、というものや、お母さんの作ってくれた粕漬の味とそっくりだった、など、心のどこかでずーっと探していたもう一度食べたい懐かしい味。そんな味が『山家漬』の中に含まれているようなのです。『山家漬』を作る私どもにもはっきりとした理由はわかりません。が、じっくりと時間をかけて熟成させるための木桶や、古い蔵の中に、遠い記憶を呼び覚ますような味に仕上げてくれる何かがいて、静かに手伝ってくれているように感じます。

よく美味しさの秘密を聞かれますが、特別なことは何もしていませんとお答えします。地元で採れた野菜を地元の酒粕に漬けるだけです。毎年味が違います。ひと桶ひと桶味が違います。桶の上下でも味が違います。野菜一つ一つで味が違います。既製品のレトルトカレーのようにいつも同じ味にはなりません。曲がったきゅうりも漬けますし、瓜の大きさも様々です。台風がくれば傷ついたナスも混ざります。悪天候で収穫が少ないからと言って、輸入品を漬ける事はしません。

美味しさは「点」ではなく、少しだけ幅があって、その幅の中に納まるように職人さんたちが仕上げていきます。そこでは経験が生かされます。当店では通常3回漬け込み作業を行いますが、最終的に味が美味しさの幅の中にない時には、4回目の漬け込みを行います。ですから、失敗はありません。時間をかければ美味しくなります。

この時間は都会では無駄とされてしまいますが、この土地ではじっくり待つことのできる豊かな時間があるのです。

この土地を旅する方には、ぜひ、この土地でないと味わえない味、景色、時間を旅の中で感じていただけたらうれしいです。雪国への旅の記憶は、決して派手ではありませんが、ふとした時に蘇る、忘れられない思い出となるはずです。

『山家漬』を旅の思い出に持ち帰っていただき、ご自宅でもゆったりと流れる雪国の時間をもう一度味わっていただきたいと思います。

🇺🇸The Unforgettable Flavor"Yamagatzuke"/Imanari Tsukemono
https://voide.tours/en/story/imanari_tsukemono

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「忘れられない味「山家漬」/今成漬物店」をご紹介いたします。

【雪から⽣まれた芸術品「越後上布」/中⽥屋織物】https://voide.tours/story/nakadaya_orimono■雪国の⾃然⾵⼟と⽣活環境から⽣まれ育った⿇織物「越後上布」雪から⽣まれた芸術品と呼ばれる織物「越後上布」。...
07/03/2023

【雪から⽣まれた芸術品「越後上布」/中⽥屋織物】
https://voide.tours/story/nakadaya_orimono

■雪国の⾃然⾵⼟と⽣活環境から⽣まれ育った⿇織物「越後上布」
雪から⽣まれた芸術品と呼ばれる織物「越後上布」。その歴史は古く、奈良の正倉院に「越後の⿇布」と記録が残されていることから、約1200年前から作られていたといわれています。朝廷や将軍家への献上品として贈られた記録もあり、当時から⾼い評価を得ていました。

越後上布の原料は植物の苧⿇(ちょま)です。茎の中の繊維を取り出したものを、⽖で細く裂き、1本1本の端を撚り合わせてつなぎ、⽷作りをします。いくつもの⼯程を経て織り上げ、⼿間のかかる⼿作業は、昔の⼯程とほとんど変わることのない技術を受け継いでいます。

越後上布は通気性が良く、軽く、さらりとした着⼼地は、夏の最⾼級の⿇織物として知られています。昭和30年に国の重要無形⽂化財に技術指定され、平成21年にはユネスコ無形⽂化遺産に⽇本の染織技術としては第⼀号で登録されました。

昔から豪雪地であった南⿂沼地域。その雪の豊富な湿気は乾燥すると切れやすい⿇⽷を扱うことに適していました。半年近くも雪に閉ざされる⽣活の中で培われた⼈々の忍耐⼒と誠実さが⾃然⾵⼟と重なり越後上布は作られてきました。

■守り継がれる雪の恩恵「雪晒し」
「雪中に⽷となし、雪中に織り、雪⽔に洒ぎ、雪上に晒す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と⼈と気⼒相半ばして名産の名あり、⿂沼郡の雪は縮の親といふべし。」 江戸時代の⽂⼈、鈴⽊牧之が「北越雪譜」の中で越後縮が雪国の⾃然⾵⼟に深い関わりがあることを描いたものです。

2⽉末から3⽉の天気の良い⽇に、越後上布を雪上に広げる雪晒しが⾏われます。これは、太陽と雪の⼒で布を⽩くするもので、この地域では春を告げる⾵物詩となっています。 越後上布はまさに、雪の恵みを受け、雪国の先⼈の知恵と共に現在も⾃然環境と⼀体化して作り続けられている⿇織物なのです。

■塩沢で四代続く織元「中⽥屋織物」
越後上布の技術を絹織物に取り⼊れた織物が、「塩沢紬」「本塩沢」「夏塩沢」になります。細かい⼗字絣や亀甲絣などで構成された模様の表現は、塩沢の織物の魅⼒の⼀つです。

当社では、⿇織物の「⽂化財越後上布」「古代越後上布」、絹織物の「塩沢紬」「本塩沢」「夏塩沢」を製作しており、細かい絣の模様と、⾵合いに、こだわりを持ったモノづくりに励んでおります。織りの⾵合いを⾝近に感じていただければと、少しずつ⼩物もこしらえております。

The Textiles Born from the Snow, "Echigo Jofu"|Nakadaya Orimono
🇺🇸 https://voide.tours/en/story/nakadaya_orimono

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「雪から⽣まれた芸術品「越後上布」/中田屋織物 」をご紹介いたします。

【南魚沼に春を告げる味/大崎菜】https://voide.tours/story/osakispinach■300年前から続く伝統野菜・大崎菜新潟には冬から春にかけて収穫される「とう菜」と呼ばれる野菜があります。「とう菜」とは、薹(とう)...
07/03/2023

【南魚沼に春を告げる味/大崎菜】
https://voide.tours/story/osakispinach

■300年前から続く伝統野菜・大崎菜
新潟には冬から春にかけて収穫される「とう菜」と呼ばれる野菜があります。「とう菜」とは、薹(とう)と呼ばれる花をつける茎を摘んで食べる青菜で、大崎菜もその一つです。冬場の野菜が不足する時節の貴重な栄養源として昔から重宝されており、その独特のほろ苦さと甘さは、南魚沼に春を告げる味と言われています。

■大崎菜の始まり
大崎菜は、江戸時代に金沢にある大乗寺から伝わったと言い伝えられています。大乗寺は、加賀百万石で有名な前田家ゆかりの菩提寺で、その寺に遣わした者が同寺に程近い清水に恵まれた里で「雪菜」と呼ばれる青菜に目を止め、郷里の大崎でも栽培可能であると思い立ち、種子の分譲を懇願し、もらい受けたのが大崎菜の始まりだそうです。

■湧き水に育まれた野菜
大崎菜は、八海山の麓の大崎字滝谷地内から滾々と湧き出る「滝谷の清水」に育まれています。この清水は、夏は冷たく、冬は温かく、その量も豊富で県下でも稀な湧き水と言われています。大崎菜は、それぞれの家で種を収穫し栽培していますが、その種を他所で栽培しても、風味がまったく異なってしまうことからも、この清水の恩恵による特産物と言えるでしょう。

■一番薹、二番薹、三番薹
大崎菜の収穫は12月から始まります。まず中心の花をつける茎を取り、そのあと伸びてくる脇芽を収穫します。最初に収穫する花をつける茎を一番薹、次に収穫する脇芽を二番薹、最後に収穫する脇芽を三番薹と呼び、あとに収穫するほど苦みが少なく、甘みが強くなります。これは大崎菜が、厳寒期の寒さから細胞の凍結を防ぐため光合成によって生み出した糖とビタミンを蓄積させているからです。

■雪の中で守り続けられる名菜
大崎菜のほとんどは露地栽培ではなく、ハウス栽培で育てています。ハウスの周りには「滝谷の清水」が流れ、雪が積もっても雪を解かしてくれますが、大雪になると解けきれずハウスが潰れてしまうため、夜中にかんじきを履いてハウスの周りの雪を踏んで消すような苦労もあります。しかしそれでも、江戸時代に栽培が始められた大崎菜は、地元の農家によってその伝統と味を守り続けてきました。ぜひ皆さんも南魚沼を訪れた際は、300年前の江戸時代に想いを馳せつつ、八海山の麓で栽培される大崎菜を堪能してみてください。

The Taste of Spring in Minamiuonuma|Osaki Spinach
🇺🇸 https://voide.tours/en/story/osakispinach

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「南魚沼に春を告げる味」をご紹介いたします。

【今に生きる山岳信仰/八海山尊神社】https://voide.tours/story/hakkaisan_shrine八海山は越後三山の一つで標高は1778米です。八海山を遠くから眺めると、たおやかな山裾がどこまでも広がり、麓の村々はまさ...
06/03/2023

【今に生きる山岳信仰/八海山尊神社】
https://voide.tours/story/hakkaisan_shrine

八海山は越後三山の一つで標高は1778米です。八海山を遠くから眺めると、たおやかな山裾がどこまでも広がり、麓の村々はまさに「山懐に抱かれる」という表現がふさわしい母性的な印象を受けます。これがいったん山の登り口から見上げると、峨々たる山嶺が肩を聳やかすように屹立して人々のなまなかな思い入れを峻拒するような、荒々しい姿で立ちはだかっています。

八海山が信仰の山として人々に知られるようになったのは、寛政六年(1794)のことですが、かの木曽の御嶽山の王滝口を開いた普寛行者が来越し、地元大崎村の泰賢行者とともに、八海山を中興開山してからの事です。

ここに八海山は一躍、天下の木曽の御嶽山の兄弟山に肩を並べ、普寛、泰賢行者の霊徳を仰ぎ、その足跡を辿って越後の内外から陸続と講集団が訪れるようになりました。

大崎口登山道はその十年後、泰賢行者自ら地元の御嶽講を率いて享和三年(1803)、これに切り開いたもので、これが大崎口里宮(現八海山尊神社)を世に知らしめた始まりです。

八海山尊神社は火渡祭を始め、夏山登拝、秋の奥駆け、大寒の雪中の滝行など、山岳信仰の脈々たる流れを今に伝える数少ない神社です。

神社の境内に入り大鳥居の方角を向いていただくと、八十八段の大石段があります。その階段を途中まで登ると、周りに一斉に音が鳴り響く「龍鳴」があります。日本古来の考え方では、手を打つことによって願いを送り、魂を活性化させることができるといわれています。

さらにその先へ進んでいただくと、8米の大鳥居と石の玉垣があります。こちらの神様の領域と境界線、いわゆる結界を通ったら聖なる八海山尊神社の本殿に到着します。
高台にある神社からは周囲の山々、森、点在する集落がパノラマのように拡がっています。神社より少し背後に奥まった所には、一転して森閑とした森の中に往時を偲ばせる苔むす里宮があり、「泰賢行者の霊窟」、「不動滝」が知られています。

■八海山尊神社 大火渡祭
当神社の火渡祭は、八海山開闢の偉業により泰賢行者の威徳にあやからんとして、当地を修行に訪れた御嶽行者によって始められたと伝えられています。

火渡祭を執行する事は行者(先達)の霊力が高いレベルに達した証であり、その秘法は講中ごとに師弟の口伝により伝えられ、散発的に行われてきました。

やがて時代ははるか下り、昭和36年、神社を中心に内外の講中挙げての統一の気運が高まり、祭日を毎年十月二十日と定め、八海山尊神社霊風園で一堂に会して行われたのが現在の八海山尊神社大火渡祭の始まりです。

いまや日本有数の規模の火渡祭に達しました。お祭り当日、祭場を埋め尽くした数多の信者が斉唱する般若心経が山々にこだまします。点火された火はやがて火柱を上げて燃え盛り、火が燃え尽きた所々燠(おき)になった炭の上を渡る信者にとって、それは一切の罪障、罪穢れ、不浄の滅却であると共に、神と人とが一体になる最大の法悦でもあります。

参集した信者の皆様も、修行者が渡った後自由に渡れますので係の指示に従って身も心も清浄にしてご参加ください。

Mountain Worship That Lives On Today|Hakkaisanson Shrine
🇺🇸 https://voide.tours/en/story/hakkaisan_shrine

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「今に生きる山岳信仰」をご紹介いたします。

3月4日(土)新潟県南魚沼市で開催!1,200年続く日本三大奇祭「浦佐毘沙門堂裸押合大祭」https://voide.tours/story/nakedfestivalJapan's 1200-year-old Three Great Bi...
03/03/2023

3月4日(土)新潟県南魚沼市で開催!1,200年続く日本三大奇祭「浦佐毘沙門堂裸押合大祭」
https://voide.tours/story/nakedfestival

Japan's 1200-year-old Three Great Bizarre Festivals
Echigo Urasa Bishamondo & Fukouji Temple
🇺🇸 https://voide.tours/en/story/nakedfestival

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「1,200年続く日本三大奇祭「浦佐毘沙門堂裸押合大祭」 」をご紹介いたします。

06/04/2022

南魚沼市の春夏秋冬が感じられる観光パンフレット「COLOR of Minamiuonuma」を発行しました!🌸☀️🍁❄️
デジタル版も公開しましたので、ぜひ見てみてください😁

観光パンフレットURL >>> https://hdesignp.com/?page_id=1293

A photo book capturing the seasonal beauty in Minamiuonuma City "COLOR of Minamiuonuma" has just been published!
Please take a look! >>> https://hdesignp.com/?page_id=1293

南魚沼市のまちづくり情報発信チャンネル、Terakoya (寺子屋)TVの動画がYouTubeで公開されました!ぜひ見てみてください!🤩 YouTube:👉https://www.youtube.com/channel/UCyeeK-Hmi...
01/06/2021

南魚沼市のまちづくり情報発信チャンネル、Terakoya (寺子屋)TVの動画がYouTubeで公開されました!ぜひ見てみてください!🤩 
YouTube:
👉https://www.youtube.com/channel/UCyeeK-HmiBAJVVzs7Mlul5w/featured👈

「TERAKOYA TV」は増淵敏之教授が全国の地域活性化や様々なコンテンツ作成の現場で活躍しているクリエーターの方と対談しながら、成功のためのヒントを引き出し、活動に活かすことで、地域を元気にしていこうという趣旨で作成しています。現代の寺子屋として情報発信をしていきますので是非チャンネル登録をよろしくお願いします。

◆TERAKOYA TVの番組内容◆
①今日のコンテンツ
増淵教授のお薦めコンテンツを紹介
②地方を生きる
地方で活躍するまちづくりや地域活性化に取組む現場の方からリモート出演していただき増淵教授と対談
③南魚沼散歩
南魚沼の「とっておきスポット・グルメ等」を紹介
④クリエーターのツボ
各界の第一線で活躍するクリエーターの方から出演していただき、増淵教授と対談

#南魚沼 #まちづくり
#南魚沼市役所 #ぜにぶちこうえん #増渕敏之 #法政大学大学院教授 #六日町 #地方 #散歩 #クリエイター TV #商工観光課 #関係人口 #テレワーク #世代間交流

【雪国特有の雁木が美しい街並み/三国街道塩沢宿 牧之通り】 https://voide.tours/story/bokushistreet ■雪国の街づくり・牧之通り牧之通りは、江戸時代の越後国塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)にち...
27/02/2021

【雪国特有の雁木が美しい街並み/三国街道塩沢宿 牧之通り】
https://voide.tours/story/bokushistreet

■雪国の街づくり・牧之通り
牧之通りは、江戸時代の越後国塩沢の文人・鈴木牧之(1770-1842)にちなんでつけた名称です。雪国の風習、生活を微細に描写した『北越雪譜』は当時のベストセラーとなり、現在でも貴重な博学的文献として高く評価されています。

塩沢は日本でも有数の豪雪地であり、関東と越後を結ぶ三国街道の宿場町として、かつては賑わいを見せていました。しかし、近年商店主の高齢化や定住人口の減少、さらには郊外型店舗の隆盛によって空き店舗が増え、日本の地方に共通する活性化が課題となっていました。

そこで街路事業(道路改良)を機に、伝統的な雪国建築を生かした街並形成を目指し、建築物の外観、意匠の統一、色彩制限、さらに2メートルのセットバック空間に雁木(がんぎ)を設置することなど、独自の建築協定を設け、雪国特有の街並み、その魅力を再現しました。

ここで雁木について説明しましょう。雁木とは、家の前に出した庇(ひさし)の呼び名。雁木通りは、道路沿いの家々が庇を伸ばして冬の積雪時の道路を確保する雪国の暮らしの知恵です。江戸時代前期から整備され、かつては日本海側の諸都市で見られましたが、明治時代以降は減少しました。牧之通りにも一部残っていましたが、街路事業を機に完全に復活しました。

牧之通りは、平成二十三年度に都市景観大賞を受賞しました。特に秋冬の抜けるような広い青空、美しい山並み、緩やかな大地の起伏、街と自然が一体化して表現する空間、雁木という雪国独特の意匠は、自律の精神を内に秘めた塩沢の越後上布や塩沢紬のように、控えめでありながら揺るぎない創意によるものではないでしょうか。単に与えられたルールに従うのではなく、自立した個性の強調として街づくりを行ってきました。それが牧之通りの雰囲気を決め、それはただ単に色や意匠をそろえただけでは出てこない、雪国の育んだ街の力を思い知らせ、景観とその向こうにある人々の暮らし、文化を翻訳するものです。

具体的なイベントとしては、二月の第三土曜日から旧暦のひな祭りである四月三日まで行われる「ひな雪見かざり」、そして十月一日より十一月二十三日まで行われる「つむぎ語り」、どちらもこの地域と切っても切れない雪とのかかわりです。雪の中で飾るひな人形、越後上布の品質をより向上させる雪ざらし。それぞれの家に長い間伝わるひな人形、越後上布や塩沢紬などを展示することで、その家の持つ伝統や物語を語っています。

🇺🇸Gangi Architecture Unique to Snow Country
https://voide.tours/en/story/bokushistreet

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「雪国特有の雁木が美しい街並み 」をご紹介いたします。

【八海山がもたらす伝説の伏流水/雷電様の水】https://voide.tours/story/raiden  ■雷電様の水八海山の麓に位置する藤原地区では、栃の木山の岩肌から湧き出る水を雷電様の水と呼び集落の飲料水として使っている。豪雪地...
05/12/2020

【八海山がもたらす伝説の伏流水/雷電様の水】
https://voide.tours/story/raiden

■雷電様の水
八海山の麓に位置する藤原地区では、栃の木山の岩肌から湧き出る水を雷電様の水と呼び集落の飲料水として使っている。豪雪地帯であるここ南魚沼は、夏の平均気温が27℃、冬は-1℃と気温差が激しい。しかし、雷電様の水の水温は、夏は12℃と冷たく、冬は11℃と温かく感じる。

岩肌から流れ落ちる清水と南側から湧き出る水は1時間16トンといわれ、山の本流は止まってもこの水は一定不変に湧出し続けた。どんなに日照りが続いても、どんなに大雨が降っても、湧出量は不変であり絶対に濁ることもなかった。

雷電様の水をぜひ口にしてもらいたい。お茶に出して飲んだら日本一、ウイスキーの水割り、ご飯を炊いてもコーヒーに利用してもその旨さは他の追随を許さない。近郷近在はもちろん、今では県外からも水汲みに訪れる人が後を絶たない。なぜこの水はここまで旨いのか。

雷電様の水は、冬の間山に降り積もった雪が解けて山の地面に浸み込んだものである。その水が長い年月を経て地上に出てきて岩の間から噴き出している。そのため、地下でろ過される工程で雪解け水に含まれている不純物がろ過され、土壌中のミネラル成分を多く含んだ水となって湧き出る。このようにして地中で長い年月をかけ、徐々に旨味成分が溶け込み、おいしい水が作られるという。夏でも冷たく口当たりが柔らかいため、今この水は県の名水にも指定され、日常的に使われる水として親しまれている。

また、ここ南魚沼は酒造りが盛んな地域である。おいしい酒造りに欠かせないものは、それに適した環境とおいしい水である。日本酒の製造に必要な水は仕込み水の30倍~40倍と言われるが、この地に降り積もった大量の雪が酒造りの環境に適している。この豊富な雷電様の水が清酒八海山の仕込み水として、活躍している。ここ南魚沼でうまい酒が造られるのにはこうした背景があるのだ。

南魚沼には雷電様の水以外にも湧水が出る箇所がたくさんあるので、是非寄って、口にしてもらいたい。

■雷電様にまつわる伝説
その昔、藤原は落雷が多く犠牲者が後を絶たなかった。それを防ぎ守るため集落では雷電様を祀り供養したところ、雷の被害が少なくなったと伝えられている。雷電様の水というのは何千年、何万年も前から流れ、湧き出している水であるが、雷電様という名前はこんな経緯、いきさつがあって付けられた名前である。

また、雷電様の邸には大きな栃の木があった。幹の周り40メートル、木の下にはいつも雨が降っていたため、昼間でも暗くおっかなかったという。夕方になると木の上から、しわがれた声で「子どもは早く家に戻れ。戻らんと腹が減った雷電様が主を栃の実と一緒に食べ、水にしてしまうぞ」と声が聞こえてくるというのだ。この木にはいろんな妖怪が住んでいたが、みな雷電様の家来だったという。

■昭和30年代の栃の木沢
荒れ狂った栃の木沢も自然が美しく岩魚のねぐらとして人々を楽しませていた。本流千の滝を上の魚止めとして、その下流100メートルおきぐらいに自然の淵が作られ、そこにはいつも大きな岩魚がたむろして泳いでいたのである。私ども若者はその淵の横でのど自慢に明け暮れ、忘れることのない風景でもある。

🇺🇸An Aquifer of Legend Beneath Mt.Hakkai/Raiden-sama Spring Water
https://voide.tours/en/story/raiden

【八海山がもたらす伝説の伏流水/雷電様の水】https://voide.tours/story/raiden  ■雷電様の水八海山の麓に位置する藤原地区では、栃の木山の岩肌から湧き出る水を雷電様の水と呼び集落の飲料水として使っている。豪雪地...
01/12/2020

【八海山がもたらす伝説の伏流水/雷電様の水】
https://voide.tours/story/raiden

■雷電様の水
八海山の麓に位置する藤原地区では、栃の木山の岩肌から湧き出る水を雷電様の水と呼び集落の飲料水として使っている。豪雪地帯であるここ南魚沼は、夏の平均気温が27℃、冬は-1℃と気温差が激しい。しかし、雷電様の水の水温は、夏は12℃と冷たく、冬は11℃と温かく感じる。

岩肌から流れ落ちる清水と南側から湧き出る水は1時間16トンといわれ、山の本流は止まってもこの水は一定不変に湧出し続けた。どんなに日照りが続いても、どんなに大雨が降っても、湧出量は不変であり絶対に濁ることもなかった。

雷電様の水をぜひ口にしてもらいたい。お茶に出して飲んだら日本一、ウイスキーの水割り、ご飯を炊いてもコーヒーに利用してもその旨さは他の追随を許さない。近郷近在はもちろん、今では県外からも水汲みに訪れる人が後を絶たない。なぜこの水はここまで旨いのか。

雷電様の水は、冬の間山に降り積もった雪が解けて山の地面に浸み込んだものである。その水が長い年月を経て地上に出てきて岩の間から噴き出している。そのため、地下でろ過される工程で雪解け水に含まれている不純物がろ過され、土壌中のミネラル成分を多く含んだ水となって湧き出る。このようにして地中で長い年月をかけ、徐々に旨味成分が溶け込み、おいしい水が作られるという。夏でも冷たく口当たりが柔らかいため、今この水は県の名水にも指定され、日常的に使われる水として親しまれている。

また、ここ南魚沼は酒造りが盛んな地域である。おいしい酒造りに欠かせないものは、それに適した環境とおいしい水である。日本酒の製造に必要な水は仕込み水の30倍~40倍と言われるが、この地に降り積もった大量の雪が酒造りの環境に適している。この豊富な雷電様の水が清酒八海山の仕込み水として、活躍している。ここ南魚沼でうまい酒が造られるのにはこうした背景があるのだ。

南魚沼には雷電様の水以外にも湧水が出る箇所がたくさんあるので、是非寄って、口にしてもらいたい。

■雷電様にまつわる伝説
その昔、藤原は落雷が多く犠牲者が後を絶たなかった。それを防ぎ守るため集落では雷電様を祀り供養したところ、雷の被害が少なくなったと伝えられている。雷電様の水というのは何千年、何万年も前から流れ、湧き出している水であるが、雷電様という名前はこんな経緯、いきさつがあって付けられた名前である。

また、雷電様の邸には大きな栃の木があった。幹の周り40メートル、木の下にはいつも雨が降っていたため、昼間でも暗くおっかなかったという。夕方になると木の上から、しわがれた声で「子どもは早く家に戻れ。戻らんと腹が減った雷電様が主を栃の実と一緒に食べ、水にしてしまうぞ」と声が聞こえてくるというのだ。この木にはいろんな妖怪が住んでいたが、みな雷電様の家来だったという。

■昭和30年代の栃の木沢
荒れ狂った栃の木沢も自然が美しく岩魚のねぐらとして人々を楽しませていた。本流千の滝を上の魚止めとして、その下流100メートルおきぐらいに自然の淵が作られ、そこにはいつも大きな岩魚がたむろして泳いでいたのである。私ども若者はその淵の横でのど自慢に明け暮れ、忘れることのない風景でもある。

An Aquifer of Legend Beneath Mt.Hakkai/Raiden-sama Spring Water
https://voide.tours/en/story/raiden

八海山の麓に位置する藤原地区では、栃の木山の岩肌から湧き出る水を雷電様の水と呼び集落の飲料水として使っている。豪雪地帯であるここ南魚沼は、夏の平均気温が27℃、冬は-1℃と気温差が激しい。しかし、雷電様の.....

【雲洞庵の土踏んだか 日本一の庵寺/金城山雲洞庵】https://voide.tours/story/untoan ■雲洞庵の開創雲洞庵は正式名を「金城山雲洞庵」と申し、その開創は奈良時代に遡ります。 今から1300年程前、大化の改新の英雄...
25/10/2020

【雲洞庵の土踏んだか 日本一の庵寺/金城山雲洞庵】
https://voide.tours/story/untoan
 
■雲洞庵の開創
雲洞庵は正式名を「金城山雲洞庵」と申し、その開創は奈良時代に遡ります。
 
今から1300年程前、大化の改新の英雄、藤原鎌足公の孫・藤原房前公が母親の菩提を弔う尼僧院として建立されました。
 
その後、今から600年ほど前当時の関東管領・上杉憲実公が越後巡行の際、当地に立ち寄られ、上杉家の先祖藤原家の菩提寺雲洞庵が荒れ果てているのを嘆き再興を志しました。まずは当庵の開山として高僧、傑堂能勝禅師をお招きしました。
 
傑堂禅師とは後醍醐天皇に仕えた楠正成公の孫、楠正勝公です。
 
戦に明けくれた時代に無常を感じた正勝公は出家し、名を傑堂能勝と改め、禅僧としてその識見と道力は高く評価されていました。
 
上杉憲実公は傑堂能勝禅師のために、新たに寺を作り替え、1429年「曹洞宗金城山雲洞護国禅庵」とされました。
 
■雲洞庵の土踏んだか
雲洞庵の境内に足を踏み入れますと最初に山門である「赤門」をくぐります。
 
この赤門から、本堂までの敷石の下に、一つの石に一文字ずつ、法華経が書かれ、土に埋められております。石の数は約7万箇になりますが、このお経の上を歩く事により罪業が消滅し万福多幸のご利益があると伝えられています。
 
この地には昔から「雲洞庵の土踏んだか」という言葉がありますがその雲洞庵の土とはお経が埋められた敷石の事なのです。
 
雲洞庵は江戸初期まで、越後国 曹洞宗300ヶ寺を取りまとめる僧録を、のちには魚沼80ヶ寺の僧録を務めて参りました。「越後一の寺」と異名を誇る雲洞庵は多くの名僧を輩出してまいりました。
 
中でも、十世 北高全祝禅師の名声は広く知れ渡っており、上杉謙信公や武田信玄公にも帰依を受け、当時の雲洞庵には禅師の徳を慕い、数百名の修行僧が集まったと伝えられています。
 
また、上杉謙信公の後を継ぎ、越後の国主となられた上杉景勝公と、その家臣である直江兼続公の主従は幼少の頃、このお寺で、学問を学び修行をし、大いに鍛えられました。
 
時代とともに雲洞庵の役割も変わってはきましたが、樹齢300年を超える杉木立と境内の静けさには時を超えた趣が感じられます。皆様も是非一度南魚沼へ足を運ばれ、雲洞庵の土を踏んでみてください。
 
🇺🇸Have you Stood on the Soil of Untoan? Japan’s Largest Buddhist Convent/Kinjozan Untoan Temple
https://voide.tours/en/story/untoan

【雲洞庵の土踏んだか 日本一の庵寺/金城山雲洞庵】https://voide.tours/story/untoan ■雲洞庵の開創雲洞庵は正式名を「金城山雲洞庵」と申し、その開創は奈良時代に遡ります。 今から1300年程前、大化の改新の英雄...
24/10/2020

【雲洞庵の土踏んだか 日本一の庵寺/金城山雲洞庵】
https://voide.tours/story/untoan
 
■雲洞庵の開創
雲洞庵は正式名を「金城山雲洞庵」と申し、その開創は奈良時代に遡ります。

今から1300年程前、大化の改新の英雄、藤原鎌足公の孫・藤原房前公が母親の菩提を弔う尼僧院として建立されました。
 
その後、今から600年ほど前当時の関東管領・上杉憲実公が越後巡行の際、当地に立ち寄られ、上杉家の先祖藤原家の菩提寺雲洞庵が荒れ果てているのを嘆き再興を志しました。まずは当庵の開山として高僧、傑堂能勝禅師をお招きしました。
 
傑堂禅師とは後醍醐天皇に仕えた楠正成公の孫、楠正勝公です。
 
戦に明けくれた時代に無常を感じた正勝公は出家し、名を傑堂能勝と改め、禅僧としてその識見と道力は高く評価されていました。
 
上杉憲実公は傑堂能勝禅師のために、新たに寺を作り替え、1429年「曹洞宗金城山雲洞護国禅庵」とされました。
 
■雲洞庵の土踏んだか
雲洞庵の境内に足を踏み入れますと最初に山門である「赤門」をくぐります。
 
この赤門から、本堂までの敷石の下に、一つの石に一文字ずつ、法華経が書かれ、土に埋められております。石の数は約7万箇になりますが、このお経の上を歩く事により罪業が消滅し万福多幸のご利益があると伝えられています。
 
この地には昔から「雲洞庵の土踏んだか」という言葉がありますがその雲洞庵の土とはお経が埋められた敷石の事なのです。
 
雲洞庵は江戸初期まで、越後国 曹洞宗300ヶ寺を取りまとめる僧録を、のちには魚沼80ヶ寺の僧録を務めて参りました。「越後一の寺」と異名を誇る雲洞庵は多くの名僧を輩出してまいりました。
 
中でも、十世 北高全祝禅師の名声は広く知れ渡っており、上杉謙信公や武田信玄公にも帰依を受け、当時の雲洞庵には禅師の徳を慕い、数百名の修行僧が集まったと伝えられています。
 
また、上杉謙信公の後を継ぎ、越後の国主となられた上杉景勝公と、その家臣である直江兼続公の主従は幼少の頃、このお寺で、学問を学び修行をし、大いに鍛えられました。
 
時代とともに雲洞庵の役割も変わってはきましたが、樹齢300年を超える杉木立と境内の静けさには時を超えた趣が感じられます。皆様も是非一度南魚沼へ足を運ばれ、雲洞庵の土を踏んでみてください。
 
🇺🇸Have you Stood on the Soil of Untoan? Japan’s Largest Buddhist Convent/Kinjozan Untoan Temple
https://voide.tours/en/story/untoan

【雲洞庵の土踏んだか 日本一の庵寺/金城山雲洞庵】https://voide.tours/story/untoan ■雲洞庵の開創雲洞庵は正式名を「金城山雲洞庵」と申し、その開創は奈良時代に遡ります。 今から1300年程前、大化の改新の英雄...
23/10/2020

【雲洞庵の土踏んだか 日本一の庵寺/金城山雲洞庵】
https://voide.tours/story/untoan
 
■雲洞庵の開創
雲洞庵は正式名を「金城山雲洞庵」と申し、その開創は奈良時代に遡ります。

今から1300年程前、大化の改新の英雄、藤原鎌足公の孫・藤原房前公が母親の菩提を弔う尼僧院として建立されました。
 
その後、今から600年ほど前当時の関東管領・上杉憲実公が越後巡行の際、当地に立ち寄られ、上杉家の先祖藤原家の菩提寺雲洞庵が荒れ果てているのを嘆き再興を志しました。まずは当庵の開山として高僧、傑堂能勝禅師をお招きしました。
 
傑堂禅師とは後醍醐天皇に仕えた楠正成公の孫、楠正勝公です。
 
戦に明けくれた時代に無常を感じた正勝公は出家し、名を傑堂能勝と改め、禅僧としてその識見と道力は高く評価されていました。
 
上杉憲実公は傑堂能勝禅師のために、新たに寺を作り替え、1429年「曹洞宗金城山雲洞護国禅庵」とされました。
 
■雲洞庵の土踏んだか
雲洞庵の境内に足を踏み入れますと最初に山門である「赤門」をくぐります。
 
この赤門から、本堂までの敷石の下に、一つの石に一文字ずつ、法華経が書かれ、土に埋められております。石の数は約7万箇になりますが、このお経の上を歩く事により罪業が消滅し万福多幸のご利益があると伝えられています。
 
この地には昔から「雲洞庵の土踏んだか」という言葉がありますがその雲洞庵の土とはお経が埋められた敷石の事なのです。
 
雲洞庵は江戸初期まで、越後国 曹洞宗300ヶ寺を取りまとめる僧録を、のちには魚沼80ヶ寺の僧録を務めて参りました。「越後一の寺」と異名を誇る雲洞庵は多くの名僧を輩出してまいりました。
 
中でも、十世 北高全祝禅師の名声は広く知れ渡っており、上杉謙信公や武田信玄公にも帰依を受け、当時の雲洞庵には禅師の徳を慕い、数百名の修行僧が集まったと伝えられています。
 
また、上杉謙信公の後を継ぎ、越後の国主となられた上杉景勝公と、その家臣である直江兼続公の主従は幼少の頃、このお寺で、学問を学び修行をし、大いに鍛えられました。
 
時代とともに雲洞庵の役割も変わってはきましたが、樹齢300年を超える杉木立と境内の静けさには時を超えた趣が感じられます。皆様も是非一度南魚沼へ足を運ばれ、雲洞庵の土を踏んでみてください。
 
🇺🇸Have you Stood on the Soil of Untoan? Japan’s Largest Buddhist Convent/Kinjozan Untoan Temple
https://voide.tours/en/story/untoan

雲洞庵は正式名を「金城山雲洞庵」と申し、その開創は奈良時代に遡ります。 今から1300年程前、大化の改新の英雄、藤原鎌足公の孫・藤原房前公が母親の菩提を弔う尼僧院として建立されました。 その後、今から600年ほど...

【本日7/10(金)18:15~放送予定📺】BSN News ゆうなびの「ニイガタぞっこん宣言」という特集コーナーで、ヴォイドについてご紹介いただきます。お時間がある方は、ぜひご覧ください😊 ▼番組専用ウェブサイトはこちらhttps://w...
10/07/2020

【本日7/10(金)18:15~放送予定📺】
BSN News ゆうなびの「ニイガタぞっこん宣言」という特集コーナーで、ヴォイドについてご紹介いただきます。
お時間がある方は、ぜひご覧ください😊
 
▼番組専用ウェブサイトはこちら
https://www.ohbsn.com/zokkon-week/minamiuonuma.php
 
▼南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「VOIDE」(ヴォイド)
https://voide.tours
 
《放送》
7月10日(金)18:15~19:00
BSN 新潟放送
(※状況により変更になる可能性がございます。)

【1,200年続く日本三大奇祭/浦佐毘沙門堂裸押合大祭】https://voide.tours/story/nakedfestival ■越後浦佐毘沙門堂裸押合大祭雪深い南魚沼の地に春を告げる祭り、越後浦佐毘沙門堂裸押合大祭。古来より続く郷...
27/03/2020

【1,200年続く日本三大奇祭/浦佐毘沙門堂裸押合大祭】
https://voide.tours/story/nakedfestival
 
■越後浦佐毘沙門堂裸押合大祭

雪深い南魚沼の地に春を告げる祭り、越後浦佐毘沙門堂裸押合大祭。古来より続く郷土の伝統ある風物詩で四季の移ろいを象徴する祭りである。
 
3月の第一土曜日の夜、2メートルをも超える雪の中で行われる裸押合大祭は、日本三大奇祭の一つに数えられている。
 
今から約1,200年前、坂上田村麻呂がこの地に御堂を建立し、守護仏の毘沙門天を祀り、村人と共に国家安穏を祈願した。あわせて五穀豊穣、家内安全、身体健康を祈り、祝宴の中で歌い踊って士気を鼓舞したことが始まりと伝えられている。
 
かつては年一回、正月の三日に御堂の唐戸を開き、御本尊の御簾を開帳し、行われる修正会に毘沙門天を信仰する人々が各地から大勢集まり賑わった。その多くの信者らは、誰よりも早く毘沙門天を間近で参拝しようと、もみ合い、押し合うようになり、その熱さと、年頭に除災招福を願う心から、水行をし、参前する。このことが混じり合って、次第に裸になる者が多くなったと言われている。
 
現在もその心は引き継がれ、上半身裸の男衆が「サンヨ、サンヨ」の掛け声とともに押し合うその姿は、勇壮かつ迫力満点である。
 
堂内の押し合いでは、年男や奉納者が毘沙門天になりかわり、木盃や金盃・銀盃、毘沙門天を型どった御灰像などの福物を撒き与える。掛け声の「サンヨ」はこれを意味する。
 
また、重さ30kg以上の大ロウソクを掲げて歩く行列や毘沙門堂内に入り押し合いを割る姿は幻想かつ勇壮であり、見る者を興奮させる。近年では市外・県外からも大勢の一般男性が押し合いに参加し、その中には外国人の姿も見受けられる。
 
押し合い終盤に行われる「ささらすり」は、鳥帽子をかぶり、狩衣、袴姿の年男が人馬にまたがり、毘沙門堂に入堂する。それまで押し合いをしていた男衆は、年男を中心に三重四重もの行列で輪を作り「サンヨ、サンヨ」の掛け声で、今年の五穀豊穣と幸福を願う。
 
■浦佐多聞青年団

昔は、村の男総出で、祭りなどの行事に奉仕するその青年の集まりは「若者連中」と呼ばれていた。この若者連中が現在の浦佐多聞青年団の始まりである。
 
浦佐多聞青年団は、地元出身の約120名の男たちで構成されていて、押し合いの準備や行事の運営等、全てを取り仕切っている。団長を筆頭に全団員が、大祭の大成功に向け日々精進し、一心となって活動している。この活動の目覚ましさは多くの人々から称賛され、その精神は次の世代に脈々と受け継がれている。
 
 
🇺🇸Japan's 1200-year-old Three Great Bizarre Festivals/Echigo Urasa Bishamondo & Fukouji Temple
https://voide.tours/en/story/nakedfestival

越後浦佐毘沙門堂裸押合大祭 雪深い南魚沼の地に春を告げる祭り、越後浦佐毘沙門堂裸押合大祭。古来より続く郷土の伝統ある風物詩で四季の移ろいを象徴する祭りである。 3月の第一土曜日の夜、2メートルをも超える....

【南⿂沼の郷⼟料理/欅苑】https://voide.tours/story/keyakien ■南⿂沼の郷⼟料理旅に出ると、その⼟地の⾵⼟を感じる料理を⾷べたいと思うのはなぜでしょうか。 新潟県南⿂沼市は、半年近く雪で覆われる⽇本有数の豪...
25/03/2020

【南⿂沼の郷⼟料理/欅苑】
https://voide.tours/story/keyakien
 
■南⿂沼の郷⼟料理

旅に出ると、その⼟地の⾵⼟を感じる料理を⾷べたいと思うのはなぜでしょうか。
 
新潟県南⿂沼市は、半年近く雪で覆われる⽇本有数の豪雪地帯です。
 
この地には、厳しい⾃然の中だからこそ、越冬のための保存⾷や発酵といった先⼈から受け継がれてきた雪国の⾷⽂化があります。
 
それは、降り積もる雪と四季折々に⾒せる豊かな⾃然と雪国の知恵が⼀体となって作りあげてきたものです。
 
欅苑は霊峰⼋海⼭の麓にあり、明治3年(1870年)に建てられた茅葺き屋根の⽥舎屋造りで歴史ある建物です。昔懐かしい雰囲気の中で雪国の郷⼟料理を堪能できます。敷地には樹齢約1,500年の⼤欅があり、店名の由来にもなっています。
 
当店の料理に使うお⽶も野菜も、そのほとんどが⾃家栽培した⾷材。地元南⿂沼で採れた季節の⼭菜やきのこ、天然の鮎や岩⿂などの旬な⾷材を⼿間ひまかけて昔ながらの調理⽅法で素朴な料理に仕⽴てています。
 
料理の素材を美味しくするには、⼀つの理由があります。それは、⼋海⼭に降り積もった雪が⼤地に染み込み、豊富な湧き⽔となって⽥や畑に流れ、お⽶や野菜を美味しく育てているからです。
 
そして、お⽶を炊く⽔はもちろん、料理に使う⽔もすべて⼋海⼭の伏流⽔を使っていますので、より⼀層、美味しさを引き⽴てています。
 
郷⼟料理を味わい、囲炉裏から聞こえてくる⼼地よい炭の⾳に⼼癒され、ゆったりと流れる時間の中で四季の恵みを感じることができます。そして、ここでしか味わうことのできない⼀膳には、それを作った⾵⼟、⽂化、⼈とのつながりが⽣まれます。
 
⾵光明媚な美しい⾥⼭の景⾊を⾒ながら、⾵⼟の味を季節ごとに味わえるという幸せが南⿂沼にはあると五感で感じていただきたいと思います。
 
 
🇺🇸Minamiuonuma's Specialty Cuisine/Keyaki-en
https://voide.tours/en/story/keyakien

南魚沼の郷土料理 欅苑 旅に出ると、その土地の風土を感じる料理を食べたいと思うのはなぜでしょうか。 新潟県南魚沼市は、半年近く雪で覆われる日本有数の豪雪地帯です。 この地には、厳しい自然の中だからこそ、越.....

【雪から⽣まれた芸術品「越後上布」/中⽥屋織物】https://voide.tours/story/nakadaya_orimono ■雪国の⾃然⾵⼟と⽣活環境から⽣まれ育った⿇織物「越後上布」 雪から⽣まれた芸術品と呼ばれる織物「越後上布...
24/03/2020

【雪から⽣まれた芸術品「越後上布」/中⽥屋織物】
https://voide.tours/story/nakadaya_orimono
 
■雪国の⾃然⾵⼟と⽣活環境から⽣まれ育った⿇織物「越後上布」
 
雪から⽣まれた芸術品と呼ばれる織物「越後上布」。その歴史は古く、奈良の正倉院に「越後の⿇布」と記録が残されていることから、約1200年前から作られていたといわれています。朝廷や将軍家への献上品として贈られた記録もあり、当時から⾼い評価を得ていました。
 
越後上布の原料は植物の苧⿇(ちょま)です。茎の中の繊維を取り出したものを、⽖で細く裂き、1本1本の端を撚り合わせてつなぎ、⽷作りをします。いくつもの⼯程を経て織り上げ、⼿間のかかる⼿作業は、昔の⼯程とほとんど変わることのない技術を受け継いでいます。
 
越後上布は通気性が良く、軽く、さらりとした着⼼地は、夏の最⾼級の⿇織物として知られています。昭和30年に国の重要無形⽂化財に技術指定され、平成21年にはユネスコ無形⽂化遺産に⽇本の染織技術としては第⼀号で登録されました。
 
昔から豪雪地であった南⿂沼地域。その雪の豊富な湿気は乾燥すると切れやすい⿇⽷を扱うことに適していました。半年近くも雪に閉ざされる⽣活の中で培われた⼈々の忍耐⼒と誠実さが⾃然⾵⼟と重なり越後上布は作られてきました。
 
 
■守り継がれる雪の恩恵「雪晒し」
 
「雪中に⽷となし、雪中に織り、雪⽔に洒ぎ、雪上に晒す。雪ありて縮あり、されば越後縮は雪と⼈と気⼒相半ばして名産の名あり、⿂沼郡の雪は縮の親といふべし。」 江戸時代の⽂⼈、鈴⽊牧之が「北越雪譜」の中で越後縮が雪国の⾃然⾵⼟に深い関わりがあることを描いたものです。
 
2⽉末から3⽉の天気の良い⽇に、越後上布を雪上に広げる雪晒しが⾏われます。これは、太陽と雪の⼒で布を⽩くするもので、この地域では春を告げる⾵物詩となっています。 越後上布はまさに、雪の恵みを受け、雪国の先⼈の知恵と共に現在も⾃然環境と⼀体化して作り続けられている⿇織物なのです。
 
 
■塩沢で四代続く織元「中⽥屋織物」
 
越後上布の技術を絹織物に取り⼊れた織物が、「塩沢紬」「本塩沢」「夏塩沢」になります。細かい⼗字絣や亀甲絣などで構成された模様の表現は、塩沢の織物の魅⼒の⼀つです。
 
当社では、⿇織物の「⽂化財越後上布」「古代越後上布」、絹織物の「塩沢紬」「本塩沢」「夏塩沢」を製作しており、細かい絣の模様と、⾵合いに、こだわりを持ったモノづくりに励んでおります。織りの⾵合いを⾝近に感じていただければと、少しずつ⼩物もこしらえております。
 
 
🇺🇸The textiles born from the snow, "Echigo Jofu"
https://voide.tours/en/story/nakadaya_orimono

雪国の自然風土と生活環境から生まれ育った麻織物「越後上布」 雪から生まれた芸術品と呼ばれる織物「越後上布」。その歴史は古く、奈良の正倉院に「越後の麻布」と記録が残されていることから、約1200年前から作られ....

【「雪に活きる」地域と共に歩んだスキー観光/南魚沼の民宿】https://voide.tours/story/lifeinsnow いまやスキー観光地として全国に広く知られるようになったこの地域に、人が訪れるようになった契機は昭和6年(19...
10/03/2020

【「雪に活きる」地域と共に歩んだスキー観光/南魚沼の民宿】
https://voide.tours/story/lifeinsnow
 
いまやスキー観光地として全国に広く知られるようになったこの地域に、人が訪れるようになった契機は昭和6年(1931年)のこと。上越線が全線開通して石打駅には関東方面から湯治客が来て、次第に賑わうようになりました。
 
昭和10年頃の石打駅前には大熊屋(おおくまや)・旭館(あさひかん)・高半(たかはん)支店(してん)、関(せき)の宿場には油屋(あぶらや)、問屋(とんや)などの旅館が、上野(うわの)・上村(うわむら)にも湯治宿がありました。
 
農業を主な産業としていた当時の石打地区は、山と山に挟まれた平地が少ない土地柄のため耕作面積が少なく、農業で生計を立てることは困難でした。
 
そのことから一年のうち半分近くも出稼ぎに出て、親子・夫婦が分かれて暮らし、正月の餅つきの人手も欠くほど極限的な生活環境にありました。
 
しかし戦後になると、スキーが進駐軍や都会の上流階級の遊びになり、岩原(いわっぱら)や布場(ぬのば)スキー場にスキー客が来るようになりました。
 
昭和24年(1949年)湯沢開催のスキーインターカレッジが雪不足で石打で開かれ、これを機に石打にもスキー場開設の動きが始まりました。
 
まだ東京は復興半ばであり食糧難も続いていたため、彼らはスキーと食糧を求めて石打を訪れてきました。
 
都会は食糧難の時代であったものの「田舎では米や野菜を作っていたし、ほとんどの家で牛も飼っている。鶏の卵もあったので、これを利用してスキー客を泊めたらどうだろう」という話から、農家の副業、現金収入の場としてスキー観光が取り入れられ民宿が始まりました。
 
民宿の“おもてなし”は本当に心からのもので、人を大事にするマンツーマンのサービスでした。石打駅までそりを引いてお客様を迎えに行って荷物を積んで家まで来てもらい、お客様の湯加減を聞きながらお風呂のお湯を湧かし、その家で一番いいものを振る舞いました。
 
その源には、自分たちが育てた一番おいしい米・野菜をお客様に提供したいという心があります。
 
民宿を経営する農家は自分の作った米に誇りを持っていました。なぜなら田植えから精米まで、全て自分でやっていたからです。「これが私の作った米です」と自信をもってお客様に提供していました。
 
戦後は食糧難だったため県は多収米を推奨しましたが、県の技師たちは量より質の時代を見据えて良質米に取り組みました。それが、かの有名なコシヒカリです。
 
同じ南魚沼、石打の中でもより美味しいコシヒカリを作ろうという競争がありました。実際に石打を訪れた人たちが民宿でコシヒカリを食べて、口コミで拡散し、そのブランド名は爆発的な勢いで広まっていきました。
 
スキー観光と米、農業の副業として始めた民宿がうまくマッチングしたので、いまの日本有数のスキー観光地や南魚沼産コシヒカリがあると言っても過言ではないでしょう。
 
現在、この地域には200軒を超える個性豊かな民宿があります。南魚沼の「自然」「コシヒカリ」「温泉」「スキー」「人」「食」は五感で楽しませ、旅をより豊かなものにしてくれることでしょう。そして、地域と共に歩み続けた物語を知り、ここでしか味わうことのできない出会いが待っています。
 
🇺🇸Life in the Snow: Ski Tourism/Minamiuonuma Lodging Area
https://voide.tours/en/story/lifeinsnow

いまやスキー観光地として全国に広く知られるようになったこの地域に、人が訪れるようになった契機は昭和6年(1931年)のこと。上越線が全線開通して石打駅には関東方面から湯治客が来て、次第に賑わうようになりまし....

【600年前から続く臨済宗の名刹/関興寺】https://voide.tours/story/kankouji/ ■臨済宗円覚寺派最上山関興禅寺御本尊は釈迦牟尼仏である。今から約600年前の室町時代。応永17年(1410年)に、関東管領・憲...
07/03/2020

【600年前から続く臨済宗の名刹/関興寺】
https://voide.tours/story/kankouji/
 
■臨済宗円覚寺派最上山関興禅寺

御本尊は釈迦牟尼仏である。

今から約600年前の室町時代。応永17年(1410年)に、関東管領・憲顕公の子である覚翁祖傳(かくおうそでん)が創始し、普覚円光禅師(ふかくえんこうぜんじ)を招いて開山が始まりと言われている。

以来、上杉家の由緒寺院として栄え、上田長尾家・鎌倉公方足利持氏公の厚い信仰により、永享8年(1436)に永楽120貫文の寺社領として御朱印地をいただき、長尾房景公と上杉房定公が伽藍(がらん)を造営し、多くの寄付を受け勢いが盛んになる。

しかし、戦国時代になると永正9年(1512)永正の乱、天正6年(1578)上杉氏家督争いの御館の乱により戦火に巻き込まれ、寺運は次第に衰退していく。

慶長5年(1600)関ケ原合戦後、上杉家が120万石を奪われ、米沢30万石を移されると景勝公の命により、米沢・関興庵が建立され第三十二世東岩和尚が住職になる。

寛永6年(1629)4度目の火災により、寺運の衰退はその極みに達したが、荒廃した越後・関興庵を憂いた綱勝公の命により、寛文年中、現在地に越後・関興庵が再興される。萬源和尚が第三十七代住職となり、ようやく寺運が回復し、上杉家の由緒寺院として徳川幕府より、10万石別格本山の格式を繁栄の時を迎えた。

当時の修行僧は、その数300人を超え甲信越における臨済禅の一大禅道場としてその名を広め、多くの禅知識、名僧や高僧を世に輩出した。
 
■中峰和尚袈裟切りの塔
江戸時代、母の仇を狙っていた小僧が関興寺の弟子となり、修行していたが、夜な夜なその仇を狙い、武芸の稽古に励んでいた。

ある晩、母の仇が目の前に現れたので、その小僧は、稽古をしていた鎖鎌で、二度相手に向かい投げつけ、近寄って見てみると、その仇は、なんと関興寺の初代住職の墓の石であった。慌ててその事を寺の住職に告げると、出家の身でありながら、いつまでも人の命を狙っているお前の心を改心させるために、この関興寺のご開山が自らその墓の石によって、その思いを断ち切るように身代わりとなったのであろうと、これよりは人の命を狙うのではなく、人の命を生かす立派な僧になるよう修行に励むことが寛容。

そう諭されると、その小僧は、心を改め懸命に修行を積み重ね、立派な高僧になったと伝わっている。これが、中峰和尚袈裟切りの塔のいわれである。

関興寺の味噌なめたか
上杉家の家督相続の戦乱の時、600巻の大般若経典を燃えないように、寺の味噌の中に入れて、戦火から守ったと語り継がれている。
 
■登龍の滝・昇龍の滝
関興寺には、登龍の滝と昇龍の滝がある。

登龍の滝は、池の鯉がその滝を登ると龍に化身をするという中国の故事に習いつくられた滝であり、その滝を登り、さらに龍の住む池より、昇龍の滝、龍の昇る滝をさらに昇っていくと、その龍は飛龍・天龍と呼ばれる龍に変わることができるとされる。

禅寺の修行僧が修行を積み重ね、その悟りの深さにより、やがて大いなる悟りに至るということを登龍の滝、昇龍の滝になぞらえ、この寺の境内につくられている。
 
🇺🇸The 600-year-old Famous Rinzai Zen Temple/Kankouji
https://voide.tours/en/story/kankouji

臨済宗円覚寺派最上山関興禅寺 御本尊は釈迦牟尼仏である。 今から約600年前の室町時代。応永17年(1410年)に、関東管領・憲顕公の子である覚翁祖傳(かくおうそでん)が創始し、普覚円光禅師(ふかくえんこうぜんじ)を招い...

【「和合」を社是とした雪国の酒造り/青木酒造株式会社】https://voide.tours/story/aokishuzo なぜ南魚沼で酒造りが盛んなのか? その全ての原点は「雪国」であることから始まる。 今から約300年前、1717年(...
07/03/2020

【「和合」を社是とした雪国の酒造り/青木酒造株式会社】
https://voide.tours/story/aokishuzo
 
なぜ南魚沼で酒造りが盛んなのか?
 
その全ての原点は「雪国」であることから始まる。
 
今から約300年前、1717年(享保2年)に雪国南魚沼のこの地で創業した歴史のある酒蔵。
 
初代の源左衛門が塩沢村(現在の塩沢地区)で青木姓を名乗り、屋号を平野屋として酒造りを始める。
 
銘柄「鶴齢」は、江戸時代の文人で、雪国の生活を全国に紹介した北越雪譜で有名な鈴木牧之が命名したものである。
 
「和合」を社是とし、呑み手、造り手、売り手の三方にとって、よい酒造りをこの精神で長きにわたり継承している。
 
現在、約4,000石(720KL)の酒を製造し、その60%は地元新潟で販売している。これは、地元の呑み手との信頼関係による、「和合」がもたらしている。呑み手の嗜好を反映させた独自の味へのこだわりと、呑み手に感動を与える酒造りに日々精進していく。
 
8月末から始まる、長期の酒造りは最新の酒造機器を駆使し、最適な環境の下で行い、12月以降は南魚沼の雪深い気候を活かした酒造りができる。
 
これは、南魚沼の雪深い冬は雑菌が繁殖しにくい理想的な環境であるとともに、長い冬の間に造る目に見えない力とその神秘な可能性を信じているからである。
 
現在は、地元出身の蔵人11人で酒造りを行い、人と酒造機器の技術を駆使して鶴齢をより一層旨い酒に仕上げるため、年間をとおして酒と向かい合っていく。
 
🇺🇸The Harmony in Snow Country Sake Brewing/Aoki Shuzo
https://voide.tours/en/story/aokishuzo

なぜ南魚沼で酒造りが盛んなのか? その全ての原点は「雪国」であることから始まる。 今から約300年前、1717年(享保2年)に雪国南魚沼のこの地で創業した歴史のある酒蔵。 初代の源左衛門が塩沢村(現在の塩沢地区)で青.....

【伝統の味、守り続けて100年 極み食材「山家漬」/今成漬物店】https://voide.tours/story/imanari_tsukemono ■代表商品『山家漬』について『山家(やまが)漬(づけ)』はこの土地で採れた野菜山菜を、や...
05/03/2020

【伝統の味、守り続けて100年 極み食材「山家漬」/今成漬物店】
https://voide.tours/story/imanari_tsukemono
 
■代表商品『山家漬』について

『山家(やまが)漬(づけ)』はこの土地で採れた野菜山菜を、やはりこの土地で作られた銘酒『八海山』の酒粕に漬け込んだ甘口の粕漬です。『山家漬』の名付け親は新潟の文人會津八一。會津八一は西行の歌集『山家集』に因んで当店の粕漬を『山家漬』と命名して下さいました。私どもはこの命名の年を創業年として、現在までの百年以上、変わらぬ味と製法を守っております。
 
日本有数の豪雪地帯ですから、漬物は大切な冬の保存食として生活の中に根付いています。長期間漬ける漬物は、発酵という過程を経て、野菜をそのまま食べる以上の栄養価と美味しさの付加価値を得られる魅力的な保存食です。
 
旅をしていると忘れられない景色に出会います。何年経ってもふとした時に脳裏に蘇る美しい景色の記憶は旅の宝です。
 
よく私どもの『山家漬』を、「忘れられない味」と表現していただくことがございます。『山家漬』の味そのものを忘れられない味と言って下さる方も多いのですが、昔どこかで食べた思い出の味と同じだった、というものや、お母さんの作ってくれた粕漬の味とそっくりだった、など、心のどこかでずーっと探していたもう一度食べたい懐かしい味。そんな味が『山家漬』の中に含まれているようなのです。『山家漬』を作る私どもにもはっきりとした理由はわかりません。が、じっくりと時間をかけて熟成させるための木桶や、古い蔵の中に、遠い記憶を呼び覚ますような味に仕上げてくれる何かがいて、静かに手伝ってくれているように感じます。
 
よく美味しさの秘密を聞かれますが、特別なことは何もしていませんとお答えします。地元で採れた野菜を地元の酒粕に漬けるだけです。毎年味が違います。ひと桶ひと桶味が違います。桶の上下でも味が違います。野菜一つ一つで味が違います。既製品のレトルトカレーのようにいつも同じ味にはなりません。曲がったきゅうりも漬けますし、瓜の大きさも様々です。台風がくれば傷ついたナスも混ざります。悪天候で収穫が少ないからと言って、輸入品を漬ける事はしません。
 
美味しさは「点」ではなく、少しだけ幅があって、その幅の中に納まるように職人さんたちが仕上げていきます。そこでは経験が生かされます。当店では通常3回漬け込み作業を行いますが、最終的に味が美味しさの幅の中にない時には、4回目の漬け込みを行います。ですから、失敗はありません。時間をかければ美味しくなります。
 
この時間は都会では無駄とされてしまいますが、この土地ではじっくり待つことのできる豊かな時間があるのです。
 
この土地を旅する方には、ぜひ、この土地でないと味わえない味、景色、時間を旅の中で感じていただけたらうれしいです。雪国への旅の記憶は、決して派手ではありませんが、ふとした時に蘇る、忘れられない思い出となるはずです。
 
『山家漬』を旅の思い出に持ち帰っていただき、ご自宅でもゆったりと流れる雪国の時間をもう一度味わっていただきたいと思います。
 
🇺🇸The Unforgettable Flavor"Yamagatzuke"/Imanari Tsukemono
https://voide.tours/en/story/imanari_tsukemono

今成漬物店が製造する「山家漬」は魚沼の地野菜を、銘酒八海山の酒粕で漬けた知る人ぞ知る一品。 その奥深い味は日本人本来の心を思い起こさせてくれる、まさに「おふくろの味」。 化学調味料や保存料などの添加物は....

【令和の農家 ここに現わる/農家レストラン まつえんどん】https://voide.tours/story/miwanouen/ ■コシヒカリ発祥の地、南魚沼。サンフランシスコと同じ北緯37度に位置しながら、毎年2mを超す雪に覆われる世界...
04/03/2020

【令和の農家 ここに現わる/農家レストラン まつえんどん】
https://voide.tours/story/miwanouen/
 
■コシヒカリ発祥の地、南魚沼。

サンフランシスコと同じ北緯37度に位置しながら、毎年2mを超す雪に覆われる世界有数の豪雪地帯、新潟県南魚沼市。

日本が世界に誇るブランド米「コシヒカリ」発祥の地である。

この地に降り積もった大量の雪から流れ出る雪解け水は、米づくりに欠かせない栄養分を豊富に含んでいる。

魚野川流域の肥沃な土壌、そして山に囲まれているために生まれる昼夜の寒暖差。

南魚沼の豊かな風土と気候が揃い、おいしい「コシヒカリ」が育まれている。

コシヒカリ誕生は今から60余年前、倒れやすく病気に弱いコシヒカリの品種改良を南魚沼市内で粘り強く試験栽培を重ねた農家の人々の熱意と努力が由来している。

今もあの頃と変わらず、コシヒカリ発祥の地として田園を守り続け、粘り強い人々の情熱がこの地に引き継がれている。
 
■農家「まつえんどん」
古くは、江戸時代中期。この地で百姓をし、屋号を「まつえんどん」と名乗っていたことが始まり。
代々守り続けてきた農地を次の世代に受け継ぐため、一度は地元を離れたが、お米のおいしさと自然を間近に感じられる環境での米づくりに魅力を感じ、南魚沼に戻ってきた。

「コシヒカリ」発祥の地である南魚沼で、
・良食味、品質重視のお米栽培
・農地を管理して地主との信頼関係
・米は毎日食べるものなので食べるまで責任をもつ

そこを重視した米づくりをしていく。

「まつえんどん」は農業が主力だが、もう1つの柱になるものがある。 それは、「玄米ベーグル」である。 南魚沼産無農薬玄米、国産小麦粉、酵母のみを使用し、 健康を意識される方、アレルギーの方にも対応できるように考えた商品だ。

また今年の秋にはハラル認証を取得する予定で そのことで地域の方だけでなく、 ムスリムの方にも安心してお店を利用していただければと考えている。

今後は農業と米加工の二つを合わせて、大切に育てた自家製コシヒカリをより多くの方に食べてもらえるよう、新しい時代の米づくりをしていく。
 
🇺🇸The Reiwa Era Farmhouse/Miwa Nouen ・ Matsuendon
https://voide.tours/en/story/miwanouen/

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「令和の農家ここに現わる/みわ農園・まつえんどん 」をご紹介いたします。

【600年前から続く臨済宗の名刹/関興寺】https://voide.tours/story/kankouji/ ■臨済宗円覚寺派最上山関興禅寺御本尊は釈迦牟尼仏である。今から約600年前の室町時代。応永17年(1410年)に、関東管領・憲...
02/03/2020

【600年前から続く臨済宗の名刹/関興寺】
https://voide.tours/story/kankouji/
 
■臨済宗円覚寺派最上山関興禅寺

御本尊は釈迦牟尼仏である。

今から約600年前の室町時代。応永17年(1410年)に、関東管領・憲顕公の子である覚翁祖傳(かくおうそでん)が創始し、普覚円光禅師(ふかくえんこうぜんじ)を招いて開山が始まりと言われている。

以来、上杉家の由緒寺院として栄え、上田長尾家・鎌倉公方足利持氏公の厚い信仰により、永享8年(1436)に永楽120貫文の寺社領として御朱印地をいただき、長尾房景公と上杉房定公が伽藍(がらん)を造営し、多くの寄付を受け勢いが盛んになる。

しかし、戦国時代になると永正9年(1512)永正の乱、天正6年(1578)上杉氏家督争いの御館の乱により戦火に巻き込まれ、寺運は次第に衰退していく。

慶長5年(1600)関ケ原合戦後、上杉家が120万石を奪われ、米沢30万石を移されると景勝公の命により、米沢・関興庵が建立され第三十二世東岩和尚が住職になる。

寛永6年(1629)4度目の火災により、寺運の衰退はその極みに達したが、荒廃した越後・関興庵を憂いた綱勝公の命により、寛文年中、現在地に越後・関興庵が再興される。萬源和尚が第三十七代住職となり、ようやく寺運が回復し、上杉家の由緒寺院として徳川幕府より、10万石別格本山の格式を繁栄の時を迎えた。

当時の修行僧は、その数300人を超え甲信越における臨済禅の一大禅道場としてその名を広め、多くの禅知識、名僧や高僧を世に輩出した。
 
■中峰和尚袈裟切りの塔
江戸時代、母の仇を狙っていた小僧が関興寺の弟子となり、修行していたが、夜な夜なその仇を狙い、武芸の稽古に励んでいた。

ある晩、母の仇が目の前に現れたので、その小僧は、稽古をしていた鎖鎌で、二度相手に向かい投げつけ、近寄って見てみると、その仇は、なんと関興寺の初代住職の墓の石であった。慌ててその事を寺の住職に告げると、出家の身でありながら、いつまでも人の命を狙っているお前の心を改心させるために、この関興寺のご開山が自らその墓の石によって、その思いを断ち切るように身代わりとなったのであろうと、これよりは人の命を狙うのではなく、人の命を生かす立派な僧になるよう修行に励むことが寛容。

そう諭されると、その小僧は、心を改め懸命に修行を積み重ね、立派な高僧になったと伝わっている。これが、中峰和尚袈裟切りの塔のいわれである。

関興寺の味噌なめたか
上杉家の家督相続の戦乱の時、600巻の大般若経典を燃えないように、寺の味噌の中に入れて、戦火から守ったと語り継がれている。
 
■登龍の滝・昇龍の滝
関興寺には、登龍の滝と昇龍の滝がある。

登龍の滝は、池の鯉がその滝を登ると龍に化身をするという中国の故事に習いつくられた滝であり、その滝を登り、さらに龍の住む池より、昇龍の滝、龍の昇る滝をさらに昇っていくと、その龍は飛龍・天龍と呼ばれる龍に変わることができるとされる。

禅寺の修行僧が修行を積み重ね、その悟りの深さにより、やがて大いなる悟りに至るということを登龍の滝、昇龍の滝になぞらえ、この寺の境内につくられている。
 
🇺🇸The 600-year-old Famous Rinzai Zen Temple/Kankouji
https://voide.tours/en/story/kankouji

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「600年前から続く臨済宗の名刹/関興寺 」をご紹介いたします。

【「雪に活きる」地域と共に歩んだスキー観光/南魚沼の民宿】https://voide.tours/story/lifeinsnow いまやスキー観光地として全国に広く知られるようになったこの地域に、人が訪れるようになった契機は昭和6年(19...
26/02/2020

【「雪に活きる」地域と共に歩んだスキー観光/南魚沼の民宿】
https://voide.tours/story/lifeinsnow
 
いまやスキー観光地として全国に広く知られるようになったこの地域に、人が訪れるようになった契機は昭和6年(1931年)のこと。上越線が全線開通して石打駅には関東方面から湯治客が来て、次第に賑わうようになりました。
 
昭和10年頃の石打駅前には大熊屋(おおくまや)・旭館(あさひかん)・高半(たかはん)支店(してん)、関(せき)の宿場には油屋(あぶらや)、問屋(とんや)などの旅館が、上野(うわの)・上村(うわむら)にも湯治宿がありました。
 
農業を主な産業としていた当時の石打地区は、山と山に挟まれた平地が少ない土地柄のため耕作面積が少なく、農業で生計を立てることは困難でした。
 
そのことから一年のうち半分近くも出稼ぎに出て、親子・夫婦が分かれて暮らし、正月の餅つきの人手も欠くほど極限的な生活環境にありました。
 
しかし戦後になると、スキーが進駐軍や都会の上流階級の遊びになり、岩原(いわっぱら)や布場(ぬのば)スキー場にスキー客が来るようになりました。
 
昭和24年(1949年)湯沢開催のスキーインターカレッジが雪不足で石打で開かれ、これを機に石打にもスキー場開設の動きが始まりました。
 
まだ東京は復興半ばであり食糧難も続いていたため、彼らはスキーと食糧を求めて石打を訪れてきました。
 
都会は食糧難の時代であったものの「田舎では米や野菜を作っていたし、ほとんどの家で牛も飼っている。鶏の卵もあったので、これを利用してスキー客を泊めたらどうだろう」という話から、農家の副業、現金収入の場としてスキー観光が取り入れられ民宿が始まりました。
 
民宿の“おもてなし”は本当に心からのもので、人を大事にするマンツーマンのサービスでした。石打駅までそりを引いてお客様を迎えに行って荷物を積んで家まで来てもらい、お客様の湯加減を聞きながらお風呂のお湯を湧かし、その家で一番いいものを振る舞いました。
 
その源には、自分たちが育てた一番おいしい米・野菜をお客様に提供したいという心があります。
 
民宿を経営する農家は自分の作った米に誇りを持っていました。なぜなら田植えから精米まで、全て自分でやっていたからです。「これが私の作った米です」と自信をもってお客様に提供していました。
 
戦後は食糧難だったため県は多収米を推奨しましたが、県の技師たちは量より質の時代を見据えて良質米に取り組みました。それが、かの有名なコシヒカリです。
 
同じ南魚沼、石打の中でもより美味しいコシヒカリを作ろうという競争がありました。実際に石打を訪れた人たちが民宿でコシヒカリを食べて、口コミで拡散し、そのブランド名は爆発的な勢いで広まっていきました。
 
スキー観光と米、農業の副業として始めた民宿がうまくマッチングしたので、いまの日本有数のスキー観光地や南魚沼産コシヒカリがあると言っても過言ではないでしょう。
 
現在、この地域には200軒を超える個性豊かな民宿があります。南魚沼の「自然」「コシヒカリ」「温泉」「スキー」「人」「食」は五感で楽しませ、旅をより豊かなものにしてくれることでしょう。そして、地域と共に歩み続けた物語を知り、ここでしか味わうことのできない出会いが待っています。
 
Life in the Snow: Ski Tourism/Minamiuonuma Lodging Area
https://voide.tours/en/story/lifeinsnow

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に隠された物語を旅する観光音声メディア「南魚沼の民宿」をご紹介いたします。

住所

六日町
Minamiuonuma-shi, Niigata

ウェブサイト

アラート

VOIDE(ヴォイド)南魚沼に眠る物語を旅する観光音声メディアがニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

ビデオ

共有する

カテゴリー