23/02/2024
秦の始皇帝
何故かユダヤ人説がある🤣
始皇帝の末裔という秦氏(秦皇帝家の姓は嬴、氏は趙だが、隣国の趙も同族の嬴姓趙氏=趙匡胤は戦国趙の子孫、のため、秦皇帝家の末裔は中国でも秦氏を名乗っている)もまた、ユダヤ人疑惑が語られる🤣
然し‼ #日ユ同祖論 はハザールユダヤが日本を乗っ取るために流したデマだ( 👊💢º⊿º )👊
始皇帝(嬴政、趙正)の実父は呂不韋という。
呂不韋にもユダヤ人疑惑がある🤣
呂不韋は斉の太公望呂尚と同族の姜姓呂氏であり、祖先は羌である。
羌は殷の時代から羊トーテムの遊牧民であった。
突然、中東に現れ、カナン人を支配して古代イスラエルを建国したという謎の遊牧民は羌だったかもしれないし、ユダヤ=羌=斉=出雲は関係が深い。
イスラエルは古代羌族の末裔という中国の少数民族羌(チャン)族を失われた十支族の子孫と認定した。
然し、寧ろ羌族が古代イスラエル支配層の祖先の可能性はあっても、
アッシリア捕囚(BC722)以降に消えたとされる十支族が、殷の時代から記録に残る羌族の祖先のはずはない。
姜斉の建国もBC1046である。
一説によればモーセはアマルナ革命の残党でイクナートンを信奉し、一神教のアテン信仰を基にユダヤ教の基礎を作り、モーセの一派はさらに東へ行き、
殷の武丁に宗教改革を行わせ、さらに日本へ渡り、
イクナートン崇拝は出雲族のクナト信仰となったという。
この説もハザールユダヤが広めた🤣ナラティブ臭いが、縄文晩期~弥生早期の話である。
🤔ユダヤ改宗フェニキア商人団が秦の時代に中国に来ていた可能性はある。
中国が西洋から秦(チーナ)と呼ばれるようになったのも、始皇帝以前に700年以上も秦が中国の最西端に位置し、西域と交易していたためであり、ソグド人と共にユダヤ改宗フェニキア商人団(ラダナイト)が早くから秦と繋がっていても不思議ではない。
日本の神道の基礎を築いたのは秦氏であり、
飛鳥時代にはハザール可汗国麾下のラダナイトは中国に交易拠点を持っており、日本に来たのは間違いない。
然し、当の始皇帝にはユダヤ教の要素は見られない。
それどころか、始皇帝自身が日本の神道の開祖か❓
と思えるくらい、東夷族伝統の東洋的、テングリ的な祭祀を重視していた。
始皇帝兵馬俑からは、始皇帝が全国を行幸した際の御車の隊列を模した銅馬車が発見されている。
これは、日本の山車のルーツである一本柱万度型露天屋臺のさらにルーツと言えそうだ。
始皇帝は天子(現人神)として御車に乗り、車列を組んで全国を御幸した。
日本の祭りの基本である神輿渡御は、
氏神を乗せた神輿に続き町々屋臺が連なり、氏子町内を巡幸する。
秦氏は日本の神社や祭禮の基礎を築いたが、神幸祭には始皇帝の行幸がイメージされているようだ。
ハザール可汗も、その御稜威を民に知らしめるために、煌びやかな馬車に乗って行幸したという。
可汗と従者は2キロメートルの距離を取らねばならず、可汗を直接見るとあまりの眩しさに失明するので、民は遠くから平伏して可汗の車列を拝むだけであったが。
行幸は、現人神たる天子(皇帝、可汗、天可汗、天王、天皇)の御稜威を遍く天下に行き渡らせるためであった。
始皇帝は中央集権体制を確立させるため、郡県制を敷いたが、県の下に郷を置き、さらにその下に里を置いた。
臣民が所属する最小単位の里ごとに、社【やしろ】が設置され、国家が定めた期日に祭祀を行うようにさせた。
漢代の記録に〇〇神社という記載があり、一村(里)一社の神社のルーツは始皇帝が作ったようだ。
古代中国の神社が、日本の⛩️神社と同じ建築様式であったわけではないようだが、
始皇帝が
国民の心を統治するために
行った、里単位で神社を置く制度は、
秦氏によって日本にも導入されたのだろう。
飛鳥時代~平安時代に秦氏が始皇帝の国家神道に倣って、様々な異教(マニ教や景教、ユダヤ教、ゾロアスター教、仏教など)の要素を取り入れて
日本人の心を支配するために神道を形作っていったのだろう。
秦は私祭を禁じ、神社は公的な祭祀のみを行わせたが、前漢では次第に有耶無耶になり、王莽が儒教による統治を打ち出し、後漢もこれに続いたため、中国は国家祭祀による支配ではなく礼制による支配が定着した。
国家祭祀は宮中のみで行われるようになった。
子孫である秦氏は、始皇帝の国家神道を日本人を統治する手段として復活させた。
日本もその後は民間信仰が台頭して祭祀による統治は次第に有耶無耶になったが、
明治維新の一村一社令、国家神道への回帰は始皇帝が目指した、国民の心まで支配する統治法が時代を超えて完成したと言えるだろう。
ネトウヨは何故か神道がユダヤ起源と聞くと喜ぶが、実は大嫌いな中国起源と知ったら発狂するだろう🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣🤣
然し、神道の基礎を作ったのは秦氏であり、その原型が始皇帝の制度に由来するのは事実である。